「必然」を愛する運命論者の話

どうも、くみこです。

 

僕は産まれてから死ぬまでの過程全てが必然で出来ているという思想の過激派です。

(ちなみに宗教話とかではないです。安心して下さい。)

 

散りばめられた選択肢というのを自分の意思で決めているに見えるが、実際はあらかじめ決められたレールの上を走らされてるといった感じでしょうか。要は一本道なのです。

 

そう言うとあらかじめ決められているのであれば結果は同じやし頑張らなくて良くね?ってなりますけどそれは大きな間違いで、頑張らなければその頑張らない道に乗ってるだけの結末になる訳ですね。

寄り道してくねくねしようが、引き返して別方向に行こうが、途中で死のうが、歩いてきた軌跡は1本に収まるのです。

そういう意味では選択権自体は別に持ってますし自由なのです。

 

ただ自由という事は怠けてもいいとか何をしてもいいという意味じゃなくて、自分で決めた目標だとか役割だとかをきっちり全うする事だと思います。そこを履き違えると必然の質が落ちるだけです。

その目標や役割を自分で分かっていれば今自分に必要なスキル、人などが定まってくるので意図せずとも自分にとって必要な環境を作っている訳です。

それは過程的には偶然と呼ぶのかもしれませんが握った結果は自分で掴み取った必然なのです。

 

僕はそんな必然を愛する人ですが、運命論者でもあります。これは相反するものではないか?と思いますが、

 

どういう結末のシナリオを作ってるのか、もちろんですが未来の事は俗に言う創り手の神しか知らないわけで自分も知る事はありません。

 

それを知る術は今を生きていかなければならないのです。その神が創ったシナリオには言ってた通り、必然しか無いと僕は思っています。

必然というのは自分にとって必要な事を教えてくれる「何か」といったところでしょうか。

 

でもその「何か」の答えを見つけるのはあくまで自分なんですよね。

決められたレールの上で唯一自分でコントロールできるのは、「自分の思想」なんです。

 

せっかくの人生をぼーっと生きてたらあっという間に過ぎるし、降ってきた必然も掴まなければ必然を落としてしまいます。

 

人生に大きくは意味なんて無いと思いますが、降りかかった必然や握られた必然には僕は絶対に意味があると思ってます。

答えを出す…というよりかは考える事そのものに意義があって、それをどう活かすかとかどう享受するか舵を切る事でまた新しい「必然」と出会える可能性がある訳です。

 

さっきも話しましたがそれを人は「偶然」とか「奇跡」と呼ぶかもしれませんが、その前段階で既に様々な背景の積み重ねがあるんですよ。だから導かれるのです。

 

運命と書いて「さだめ」と読むのはそういう事ですよ。

 

じゃ、こんなシナリオなんて背いてやると自ら死ぬという選択もしてもいいでしょう。しかし、それすらも神のシナリオの手のひらの上で、そこで神が自殺するシナリオを書いてたら死ぬし、そういうシナリオじゃ無かったら死なないし、それだけです。

 

事故で死ぬのか病気で死ぬのか、それすらも操ってる訳ですから、特に死について怯える必要は無いのです。

 

わざわざ自殺しなくても勝手に死なせてくれるし、長生きしたくても勝手に死んじゃいます。人間として生まれた以上終わりのあるシナリオしかありません。

なら、今与えられた必然を考えて生きましょう。

 

僕の場合、日本の関西で、人間のオスとして産まれ、クセの少しある一般家庭で、食物アレルギー持ちで、中高一貫の私立に行き、絵を描き始め、陸上部になり、B'zにハマり、友達もでき、建築学部の大学に入り、続けてきた陸上どB'z活動で新しい友達や彼女もできたりなんかして、建設業の会社に入り、また様々な試練もありながら会社での仲間やかつての友達に支えられながら、こうして生きている。そしてめちゃくちゃ楽しい。

 

そのどれもが僕は必然だと思ってるし、楽しい未来を思い描いて頑張ってきたからだと思う。

 

まあ正直しんどい事も結構あってそれに耐えられない時期もありました。でも同じ事象でも考え方を変えていけば、これもまた神が与えた試練か…。どういう意味があるんだろ、と違った考えをすればちょっとは心にスペースを持って生きてけると…うん、思います。

 

それではまた神が与えた次のシナリオを楽しみにしていきましょうか。