茨木現場物語 〜モノローグ〜

 

ついに茨木現場の引渡しが完了した…。それはつまり、新たな旅立ちとこの現場の別れを意味する…。

 

3月にもなり、少し働く時間も落ち着いてきたという事で茨木で働いた2年間をこのブログに納めようかなと思う。

 

ただ全て一度に書いてしまうと膨大な量となるため、あらかじめ6つの章に分けて、内容も主に仕事に関するものに絞って綴っていく。

 

恋愛や趣味については他のブログで散々書いているので問題ないだろう。では、本編に移る前に目次だけ目を通していただいてモノローグに入っていこう。

 

ノローグ: 甲子園編 〈「1年目」の洗礼〉

第一章: 杭〜基礎工事編 〈限界、そして迷走〉

第二章: サイクル工事編 〈一筋の希望〉

第三章: 足場解体編 〈折り合いと感情〉

第四章: 検査、内覧編 〈働く意味〉

エピローグ: アフター編 〈今後の生き方〉

 

これを見ていただくと分かる通り、モノローグは茨木現場ではなく、前の甲子園の現場の10ヶ月間を軽くおさらいしていく。

当時も現場についてのブログを書いていたが、「真っ只中」と「その2年後の今」とでは考え方が変わった部分も当然あるので、「今目線」で書いていこうかなと思う。

 

「1年目」での洗礼

2020年6月、僕は甲子園にある現場に配属された。

7階建の建築物だったが、その時にはある程度…4棟のうち1棟は3階ほどまで出来ている段階だった。

本当に途中の段階で入ってしまったので、なかなか人付き合いが難しく、すでに内輪のノリが出来てるグループに1人単身で入るかのようなそんな気まずさがあった。

 

メンバーは所長、次席、三席、四席、派遣の方、図面士、事務員さん、そして五席の僕が入った形となる。

所長はドシッとした口数こそ少ないが言葉に重みがある人、次席は優しくも成長を促してくれる良き上司、四席も優しい先輩だった。

事務員さんもベテランの方だったので余裕もあり色んな意味で優しく「社会人たる者」を教えていただいた。

派遣の方や図面士の方はあまり話す機会は無かったが、優しく見守ってくれたと…勝手に思っている。

 

ここで記していない人が1人いるが、あくまでこれはモノローグなので割愛させていただいている。

簡潔に話すと、結構な理不尽を押し付けられていたので日々ストレスが溜まっていて、その人からの着信が来ただけで心臓が震えるほどだった。

後述するが、生きるのをやめようかと思うぐらいには病んでいった。

 

この現場には10ヶ月ほどいたが、正直学んだ量が…。当時はあんまり思わなかったが、今回の茨木で学びが多かった分、余計に少なく感じるものがある。

 

主な理由としては自分が末席だったという事もあり、雑用を押し付けられる事で大半をその雑用等で時間を費やしてしまったからである。

主に安全の書類確認(という無駄な時間)や、搬入動線が狭い環境だったのでゴミの出し入れやコンクリートミキサー車の往来などには少々苦労をした。

 

他には所長が他現場の異動により所長+事務員さんが変わるという、うちの会社的には珍しい事が起きてあたふたしてたのも少しはある。

次席がほぼ先頭きって対応しないといけない分、みんなの仕事量が多くなり、僕を教える余裕が無かったように思える。

だからそこまで質の高い事は教えられなかったし、終いにゃ要領もよろしくないので当たり散らされていたのも分かる。今なら。

 

良かった事と言えばまず職人さんと仲良くなれた事である。

僕は人見知りだったので全然喋れなかったのですが、お喋りなコミュニケーションが上手い人が多かったのもあり救われた。

 

怖い顔の人ほど優しいのはほんまやったんやなーというのはある。まあ、でもやっぱ怒ったらめちゃくちゃ恐ろしいんだけども。

 

特に同い年の職人さんと仲良くなって愚痴を言いまくってストレスの捌け口になってくれたのはありがたかった。

仕事の愚痴は携わる人じゃないと全然ニュアンスが伝わらないし、他の現場の人にはむしろストレスの生産側なので話す事すら出来ないから余計である。

 

それ以外にも朝まで飲んでたり、ガールズバー行ったり、真冬に外でご飯食べたり色んな事喋ったり本当に楽しかった。

 

今までの環境とは全く違う生活環境、人間の環境での1年間は確かにそれだけでも刺激としては沢山あったように思う。

 

それまでは本当「似たような価値観」の人とだけ付き合ってきたんだなというのがひしひしと伝わった。

中卒、高卒でそこから職人一本の人がほとんとで、ヤクザ手前の人とか、前科者とか…日本人なのに日本語が伝わらない人とか倫理観崩壊してたり性根が腐ってる人とか…本当に色んな人がいた。

ほんと今まで見ていた景色とは全然違っていた。

 

 

僕は大学の時点で井戸を脱出し大海を見ていたように勘違いしていたようだ。

大海はどうやら、ただのしょぼい池だったらしい。

社会人になってまた一段と世界の広さというものを思い知り、ひけらかすように話しているが、今こうして見ている世界も所詮は小さい湖程度なんだろうなと思う。

 

そして周りが大学院生や大学生がマジョリティであったが故にそういった現実を余計に感じるようになった。

 

自殺という選択肢

4月の1週間という長期休暇を使って死のうと画策したのは2021年3月の話である。

簡単に言えば自己肯定が底を尽きたのが原因で、

「これから迷惑をかけ続けるくらいならできるだけ早く死んだ方が長い目で見れば迷惑をかける量が減るんじゃないか」という答えに辿り着いてじったというだけで自殺をかなり真面目に実行しようとした。

 

どこまで行ったかと言えば、遺書は書いたし(今も残している)、近くだと帰れてしまうので遠い場所を選び、片道分だけのお金を握りしめて出かけ、高い橋の上からダイブして死のうという計画の中で、橋桁の淵までは辿り着いてあと一歩踏み外したら死ねるという状況まで来ていた。

 

しかしながら直前で襲いかかってきた恐怖はあまりにも大きく、結局生き永らえる事になってしまった。

絶対に死んでやるという「覚悟」が無いと自殺すら出来ないんだな…自殺できる人って偉くないけど凄いなと感嘆していた。

「生きたくない」じゃ死なない。「死にたい」ではもっと死ねない。「死ぬ必要性と強い志」が無ければ人は死ねない。

 

あまりにも矮小な自分には嗤う事しか出来ず、片道分しかお金を持ってなかったので遠い距離をひたすら歩きながら…色んな事考えながらひたすら歩いていた。

 

その中で、この自殺未遂の経験が今後活きてくる日が来るだろうと…。

今生きているのにも意味があるんだとしたら、それは間違いなく次の茨木の現場で少なからずとも答えは出てくるだろうと。

 

まだ1つ目の現場仕事で比較対象も無いまま死ぬという答えを出すのは早計過ぎたのだ。

次でどれくらい自分は貢献できるのか、それをまずは知ってからでも遅くない。

 

「生きる」はコントロール出来るようで出来ないけれど、「死ぬ」はコントロール出来ないようで出来るものである。

 

どれだけ永く生きていたいと思っていても最終的な生きる権利は自分が持っていない。

しかし、全てが嫌になって消え去りたいと思った時、死の手綱を持ってるのは自分だ。死にたかったらいつでも死ねるのだ。

その「死の手綱」が、かえって僕の不安を消す「安全帯」となっているのだ。

ならば、死にたくなるまでは思う存分、苦しもうが生きてやろうかって気になった。

 

長い長い帰り道の末、太い太い一本筋の通った自分なりの今の解答を手に入れて、僕は次の現場へと向かうのであった…。

 

〜第一章へと続く〜