5度の三繊を振り返って

 

体力のなさを実感し始めたくみこです。

 

まあ、かつて京都工芸繊維大学という知る人ぞ知る大学で細々と陸上部をやっておりました。

 

そこには関関同立的な立ち位置の、3つの繊維に関わる大学として「三繊」という枠組みがあるんですよ。

実際に今も繊維学部がある信州大学と、農業大学と間違われがちな東京農工大学と、繊維がいまだに名前に残ってる京都工芸繊維大学ですね。

 

その3大学の対校戦が毎年6月下旬に長野か京都か東京かのいずれかで開催されます。

 

僕が1回生の時は長野でやりました。そこから京都(2回生)→東京(3回生)→長野(4回生)…と大学時代は全てに参戦していました。

院には進まず社会人になった私ですが、次のローテーション上、京都だったのでそこは参加して引き下がろうとしていました。

 

しかし、未曾有のコロナウイルスの影響により当然ながら三繊も消滅。なんと丸々3年出来なくなったわけです。

そしていつの間にやら私も社会人4年目になった時に4年ぶりの三繊を京都で開催する知らせを聞いたのです。

 

自大学がホームの時は段取りや当日の審判などの全ての運営を自身の大学で主体となってやらなければなりません。

正直私はどちらかというとずっと走ってて運営を任せっきりにしていた怠けた人間でしたので、ここいらで還元せねばと思っていました。

 

そして、私は三繊に関しては強い思い入れがありました。後輩のみんなにも三繊を良い思い出にして欲しいという烏滸がましさもあり参加を決めたのでした。

 

そんな思い入れと、今回を含めた三繊の思い出を振り返りながら綴らせていただきます。

 

※プライバシーもありますので実名や人が映った写真は控えさせていただきます。ご了承下さい。

って言った後ですが、この写真だけは入れさせて下さい。

 

1年目@長野 『洗礼』

 

高校の引退試合…とある事が原因でそれなりの結果であっけなく終わった。悔やみはあったが、2度と陸上なんかするもんかと腹に決めていた。

 

しかし内に秘めていた未練がそうさせたのか、僕は大学に入っても陸上をしていたのだった。

 

思えばこの時点で奇跡だった。専門だった400m走者が多かった上に実力も拮抗しており充実していた。何より美人のマネージャーさんがいる。そんなの入らない訳ないじゃないか!

僕は意気揚々と同期の中で1番乗りの入部を決めた。

 

受験中に筋トレをやってた事や、部活のある日は全て参加していたのもあり1発目の試合でベストが出た。そんな中の2回目の試合が長野県で行われる三繊だった。

 

短距離とは練習で絡みはあったが、長距離のメンバーは会う頻度もあり、印象が薄く初めましてに近い人もいた。

 

三繊では400mでベストを出し、マイルリレー(4×400mリレー)で優勝する事を目標に仕上げてきた。

そういう意識を高めていたからこそ、長野に向かうバスで1人遅れてきた長距離の同期に少し苛立っていた。

 

夜行バスでは興奮し過ぎてほとんど眠れずにいた。何か眠いまま競技場に着いた。

長野のホームだからか?いや、、そんなレベルじゃないくらい驚いたのは信州大学の人数だ。

100人はいたような?工繊の10倍くらいはいたように思える。特に長距離の層が厚く色んな意味で敵わなかった。

それと東京農工大学も信州ほどではないが、しっかり人数がいるという事だ。

これで対校戦するというのはいくら何でも惨めじゃないかと思うくらい工繊の人数は少なかった。

特にフィールド競技専門が少ない(というか、いない種目がほとんど)なので「総合得点での勝負」という面では話にならなかった。

 

なら、自分は400とマイルの目標を貫けばいい。と更に集中を高めた。

 

結果だけ言えば、400mは自己ベスト、マイルリレーはなんと逆転優勝できたのだ。

おそらく信州大は2軍メンバーだったとは思うが、それでも嬉しかった。

競技面で言えばこの初回が1番上手くいった。間違いなくそう言えるだろう。

 

しかし、1番「洗礼」を受けたのも間違いなくこの初回だったのだ。

 

まずは、開会式が終わった直後、『〇〇大学一同前へ!!』と主将が大声で叫び、各大学が運営、観客席に向かって『今日1日よろしくお願いします!!』『お願いしますッ!!(一同)』と言う伝統があるらしいが、そんなの知らないよね…

2大学の圧が凄すぎてこの時点で負けたわ、って思ったもんね。

 

また閉会式後にも各大学が円陣となり、中心に主将が立ち、『〇〇大学のーー!!さらなる発展と栄誉を讃えーー!!(←ここは各主将のアドリブ)フレー!!フレー!!〇〇(爆声)』『フレフレ〇〇!フレフレ〇〇!(一同早口)』ここに関しても、やはり数の暴力と体育会系の暴力からか他2大の圧力がすごく終始すぼみっぱなしであった。

とりあえずその辺は来年から頑張ろ…そう決意した。

 

競技というメインが終わった僕はクタクタになっていた。その後レセプションといって信州大の食堂で夜ごはんが用意されていたのでそこでゆっくり休んで帰ろうと思っていた。

残念ながらレセプションこそが本番だったのだ…。

 

ザ・体育会系のようなノリ、各競技優勝者によるビール🍺リレー、周りのワイワイについていけず圧倒されてしまった僕は一人しくしくと枝豆を食べていた。

それは僕が例外ではなく、特に未成年の多い同期はみなコミュニケーションを放棄していた。

「1人」を除いて。よく見れば前日集合時間に遅刻した彼だった。

 

ふと見たらそいつは同じく未成年でシラフであるにも関わらず、数々の陽キャのノリについていき…どころかその人達すらびっくりするようなハジけっぷりだった。

 

食堂内の情景を目の当たりにした僕は三繊の価値観が180度変わった。

優勝したやつが勝ちじゃない…ここで楽しめたもんが優勝なんだ…!!

間違いなくこの三繊のMVPはノリの流れを作った彼だ。

彼はこの三繊を経て、この盛り上げるカリスマ性を見出され三繊に…いや、陸上部において欠かせない存在になっていったのだ。

 

2年目@京都 『ビール瓶8本』

京都でホームの三繊だったが5回あったうち、ダントツで記憶にない試合になっている。

 

理由はいくつかあって学科の課題に追われていた事が原因である。徹夜しながらバイトしながら部活をやっていたような時期だ。

また、競技面ではその1ヶ月前に自らの一生の目標であった400m49秒台を達成した記憶の方が残っている事もある。

 

そしてまだ2回生で運営のほとんどは1つ上の3回生がやって下さっており、当日に関しても運営よりも競技得点を稼ぐために色んな種目に出っ放しだったのでほとんど携わっていなかったのだ。

 

今思えば、今年の京都開催の三繊運営のために後輩がめちゃくちゃ忙しく色んな段取りをしていた経緯をLINEを通じてようやく分かった。

その忙しさをちょっとでも理解していれば手伝っていたと思う。いや、何か理由を付けて結局怠けていただろう。

当時からその心があったなら最初から積極的に活動していただろうから。

 

競技面で言えば、400mは信州大の人や農工大の人に嘘みたいに惨敗した。そして1年前に勝てていたマイルもこれまた信州大に敗北したのだ。

理由は400m47秒台の人が参加していたからだ。つまり、信州大は本気で挑んでいたのだ。

1年前は2軍だから勝てただけだった…と落ち込んだ反面、

2軍でも勝てると舐められたのに、昨年度の工繊に惨敗しそれでは負けてしまうと「本気を出させた」というのがすこし嬉しかった。

 

2度目の三繊でノリも分かっていたのだが、やはり人数差もあり終始圧倒されていた。

 

しかし、レセプションではとうとうお酒を解禁🍺という事もあり手前にいた農工大の人と酒の勝負をした。というか、たまたま手前の人が日本酒を持参するレベルの酒豪だったので吹っ掛けられたのだ。

僕は負けたくなかったし、場所も家まで徒歩で帰れる距離(地下鉄3駅分)なので限界まで飲んでやろうと目の前にあったビール瓶をこれでもかと飲んだ。

 

僕はビールを計8瓶飲んだ。そこからは全然覚えていない。多分酩酊した状態で家に帰り吐いてただろう。

ノリに飲み込まれた結果、楽しむ事と楽しませることを見失ったこれまた反省点の多い2度目の三繊となってしまった。

 

3年目@東京 『失敗』

3回生の時、僕は主将になっていた。

『三繊は楽しむものである。』

しかしそれと裏腹に粒揃いの後輩も入ってきて、もしかして万年最下位から脱却できるのではないか??という気持ちも芽生え、本気で2位を獲りに行く計画を発表した。

もちろん倒すのは農工大だ。

 

入念に本番を見据えた調整をし、前日に東京に到着した。

しかしそれが仇となり、高校の同期の家に泊まる事にしたがそこで割とはっちゃけてしまい、当日走る前からクタクタになっていた。

 

結局400mに関して芳しい結果も出せず、健闘はしたものの全体としても2位になる事はなかった。

マイルに関して覚えていないが…優勝したんだっけ?記憶では農工大もなかなか粒揃いのメンバーがいた事は覚えている。勝ったのか負けたのは正直忘れてしまった。

 

また失敗したなーって場面は最後の円陣で声出しを主将だった僕が担当する事になったが、B'zの歌い過ぎで脳内が大声=シャウトになりめっちゃ高くなってしまった事だ。

なんか思ってた重圧感が出ず個人的に締まりが悪い終わりになってしまったなーと、そんなん誰も覚えていないだろうけど。

 

その反省点もあってか、レセプションではボッチになるわけでもなく、飲み潰れて会話放棄するわけでもなく色んな人と楽しく会話したように思う。さすがに3回生ともなれば年下も多くなって気持ちも余裕が出てきた。

 

帰りはそこまで覚えていない、覚えているのは日曜夜帰りの月曜日で家に着いた瞬間爆睡したのだが、

その眠りについた直後、朝の9時頃だっただろうか?

ドドドド!!

ものすごい横揺れがあり、地震?🫨と頭の中では判断していても疲れ過ぎで身体が全く動かなかった。まあ最悪死んでもええやともう一回眠りに堕ちていった…。

 

実際近くで震度5くらいの地震があり、某駅ではワイヤーで吊ってある看板が片方外れて傾いていたり電車はもちろんストップし大学にすでに着いてしまった人達は帰るツテを失い混乱したらしい。すいません、他人事で、、

 

そんなこんなで…三繊も定石ではこの3回生で陸上部を引退するのでラストだ。

でもこのままでいいのかという悩みと情熱のメラメラは燃えていたままだった。

 

4回目@長野 『カラオケ』

僕から言い出したのか誰かに誘われたのか…記憶は定かでは無いが、形式上は引退した同期と先輩と僕の3人が追加で1回生の時以来の長野で三繊を行った。その中の1人には盛り上げの天才の同期もいた。

 

正直、完全に走りというよりも楽しむために行ったようなものだ。

とはいえ、色んな競技に真剣に参加した。走高跳が135cmもいたって真剣である。

 

マイルに関してはベストメンバーというより、新しいメンバーで思い出作りで走ったような気がする。

レセプションは以前ぼっちプレイをかましていた時と同じ信州大の食堂だった。

 

けれどあの時の僕とは違う…!お酒を携え、周りが年上だった環境から、ほぼほぼ年下になって自分を出しやすい条件下にある…!(カス)

 

たしかに1回生の時と比べれば見違えるほど話をしていた。しかしやはりと言うべきか、中心にいたのは盛り上げの上手い彼だった。

あのカリスマは到底追いつけない何かを感じた。こうやって真価を発揮してる所を目の前で見た時にグッと凄さを焼きつけられる。

 

酔いの加減がちょうど良い塩梅になってバスの出発まで時間があったので工繊メンバーと農工大の400mランナーを1人誘ってカラオケに行った。

まさか単体でこんなアウェイな状況で来てくれるとは思わなかったので…

 

そして僕たちは「いつも通りの」ウルトラハイテンションカラオケを披露し大いに盛り上がった。農工大の彼も周りにこんなテンション高い人少ないから楽しい!と満足そうにしているのを見て

誘って良かったなーと思ったし三繊に行って良かったと思ったし、この他大学との交流こそが三繊の本質たる部分だなと実感した。

 

この一時一瞬を共有して密度濃く楽しむのはきっとドバドバのドーパミンが流れているのだろう。

バスで帰ってる間も、帰ってからの1週間くらいもずっと三繊の思い出で満たされていた。

 

4年目は出場が任意だったからこそ、参加する重みも変わってきてこれほど充実したものになったのだろう。なにせ走馬灯候補にもなり得る良い思い出になった。

 

5+3年目@京都 『復活✨』

僕は4年で卒業し、社会人生活を送る事となった。

 

しかしそんな生活早々に冒頭でも話をしたがコロナウイルスが蔓延し、部活自体が出来なくなるといった想定外の出来事が起きた。

 

元々順当にいけばその年にホームの2度目の京都開催となり、審判や運営を手伝って幕を引こうかなと思っていたが、陸上すらできない状態なので当然三繊も行われなかった。

今までやってきたマニュアルなども全て無に帰す事態に後輩を助ける術もなかなか見当たらなかった。

 

気が付けば翌年もその翌々年もまだコロナ禍の尾を引いて三繊は結局延期となっていた。

 

それでも希望が見えていたのは、反動の影響か、それとも運なのかは分からないが部員が沢山入ったこと。そして、実力もありながら性格も良さそうな人が多い(多分)という事だった。

 

いくら新歓を工夫しても、入る時は入るし入らない時は入らない。そんな波は数年周期で上昇と下降を繰り返す。

僕が4年の時の1年生は1人しかいなかった。彼はとても優秀ではあったものの同期がいないという事で心配していた。

しかも彼は1年から主将を務めることになり、引っ張る立場でもありプレッシャーも相当あっただろう。

コロナ禍で身動きが取れない中でもSNSなどを駆使して内部や外部に情報発信したり頑張ってる姿を見てきた。

その結果もあってか上昇の波を引き寄せ、彼も後輩に恵まれる事になって本当に良かった。

 

そんな流れに軌道が乗った中、4年ぶりに三繊を行うという知らせを聞いた。

丸々3年も空けば僕のことを知らない後輩がほとんどになっていた…が、1回だけ練習にお邪魔させていただいた事があったので一部の人は知っていた。

 

僕を知らない人が多いという事は三繊自体を知ってる人もまたほとんどいない。

僕が4回生の時の1回生がその時にはM1になっているわけなので学部生は知らないという事になる。

その事もあってか運営の総務は僕が4回生だった時の1回生だったあの部員1人世代の、現在M1の彼がやっていた。

 

彼もいうて三繊の事をほんの一部しか知らない。

かく言う僕も運営から逃げてきたので何も教える事は出来なかった。

分かった事はLINEなどの連絡を通してこんなに大変なんだなと、その見えている部分もまた苦労のほんの一部だったのだろう。

 

僕はせめてもの過去への償いとして当日審判をやって運営に携わろうと思った。

すると、かつて4年前三繊に一緒に行った同期と先輩や、他のOB達も数人参加しておりその中にはレアな人もいたりして会うのが楽しみになってきた。

 

審判をメインにしようかと思ったが、エントリーでOBメンバーが全員出場していたので僕も全然走ってないがやり投げと200mをエントリーした。

フリではなくほんとに全然走ってない。現場では走ると危ないし。強いて言えば電車間に合わすためのダッシュくらいだけどちょっと走ればバテてしんどい、、やっぱ定期的に走るのは大事やね。

 

開催前に僕が出来る事はプログラムの把握、審判メンバーの名前と顔を覚える。

自分が出るとこだけ見ていたら想定外のアクシデントに対応できない。全体を覚える事が大事だ。

メンバーの顔はSNSで見たら覚えられる。また自己紹介もあったので名前と専門種目と年次くらいは覚えてた方が会話しやすいな…とか色々考えてたらあっという間に本番になっていた。

 

予習のおかげである程度の名前と顔の一致はあった。やってて良かった、、

顔合わせをした後に準備を始めたが、1人1人がほんとに運営の事を考えて動いており、サボってるような人は誰1人いなかった。その意志統一も総務が頑張ってたのたと後輩もまた何としても成功させようと頑張っていた事もあるだろう。

 

その時点で僕はもう感動していた。一生懸命さってキラキラしているんだなって、昔陸上部で頑張っていた時代を思い出したりした。

 

競技が始まれば審判も分からないところやバタバタした所もあったが、最後まで遂行しようという

意志が皆にあったおかげで全体的に見ればトラブルも無く綺麗に収まっていた。

 

僕も100mの審判は初めてだったので無知ぶりが目立ったものの、何とかなったんかな?

競技ではやり投げはなぜかベストだった。現場で悲しくも鍛えた甲斐があったのだろう。200mはやはり後半でバテて散々だった。

 

片付けの時は工繊だけでなく、信州大、農工大の人も積極的に手伝ってくれたおかげでスムーズに完了した。

そういった率先とした助け合い精神もまた涙腺に響く。何かにつけて言い訳してやらない人間ばかりじゃないんだな。世界が綺麗だ。

 

また、4年も空いたからか三繊の雰囲気も終始和やかに流れていたように見えた。僕は今回の雰囲気の方がめちゃくちゃ好きである。

 

けれど、伝統は残さなければならないという自己矛盾もあった。

それは最後の円陣は今後やるにしろやらないにしろ、ここでやっておかないと潰えてしまうなと思い、OBで一度レクチャーをして行った。

 

レクチャーの時の円陣の中心はやはり同期の盛り上げ役だ。

彼は声界のリブァイと呼ばれており、1人で一個旅団並みの声量があるとされる。

あー、期待通り素晴らしい掛け声をしてくれる。気持ちぇぇね。

 

伝統というものはあまり好きではなかったが、レクチャー後に3大学がそれぞれ円陣をやった時は上手いこと全体として締まって一体感が出たので現役の人達も好印象だったんじゃないかな。

 

ほんとに1人1人が自律して動いてくれたおかげでこうやって三繊が復活してくれて感無量だった。これでもう、僕の出番はおしまいだね…。

 

そう言えば、B'zファンの後輩もいてびっくりした。女の子だし一言目がこのブラジャー持ってますだったから尚更びっくりした。もうちょっと喋りたかった。

まあ、大抵僕の熱量がおかしい方向にいくのであれぐらいで良かったかもしれない、

 

飲みはOBで集まって粛々と行った。大体はいつメンだったが1人だけ喋るのが4年ぶり…で色々と訳があり喋りたかったのであの時と同じような感じで話せたので良かった。

またOBで集まって飲みたいね。

 

あー

 

気が付けば、のべ8年…8年の間に色んな事があったなと三繊が終わってからしばらく耽っていた。

(ゼッケン番号…「最後」であり「最高」であった事を示している。)

 

 

青春が一つずつ消えていく感じが少し怖い時もあるけど、時の流れは前にしか進まない。また新しいキラキラを見つけて僕は淀んだ空気を飲み込み日常に戻っていく。それでもあの時の太陽が、同じ輝きで今日も昇っている。