自分の半生 ~大学編③-2

一見上手くいったかのように見えた3回生、確かに良いこともたくさんありました。しかし、なかなかくすぶることも多かったです。
まあ、そんな起伏の大きな中編を見てくれればなと思います。

第七章 恋心

僕は同期の女の子に恋してしまいました。元来、部活というものに恋愛を持っていきたくない性格なのでその恋心が他の人に漏れないように気を遣ってはいましたが、唯一府大の加古川東の同期には打ち明けていました。
理由としては彼を一番信頼してたからというのが表向きな理由でした。

7月頃の帰り際の挨拶はおつかれからバイバイに変わり、部活ではお互い素っ気ない感じでいましたが、帰りでは相手もデレ始め話すことも次第に濃く多くなっていました。それが何より心地よかったのです。
8月の合宿後、彼女の誕生日だったのでごはんを2人で行くことにしました。本当は告白の類をここで言おうとしていました。
しかしタイミングが合わずここでは無いと思い、言えずに話はこれからドイツへ留学しに行くという話になりました。この5日後に出発し、帰ってくるのはその1ヶ月後でした。
LINEだと海外でもつながるしいいよねって僕は言うと彼女は寂しくなるからいっぱいLINEするかもと珍しく弱気でした。
いつの間にか話ばかりしてると5kmほど歩いて帰ってました。出発日が僕の誕生日でしたので、また帰ってきてからごはん行こう、誕生日に!と言われ、いや、もう1ヶ月遅れやないかと突っ込みしばらく会えないのかと思うと僕も寂しくなりました。

ドイツでは7時間時差がありました。僕がお昼に起きた時が大体向こうの朝で、深夜LINEしてる時はまだあっちは夕方で大体この二カ所で細かくLINEをそれからもとっていました。

僕はもう1つ恋しているものがありました。B'zです。しかも30周年、大きなドームを貸し切ってライブをします。大阪ではなんと僕が走りたかったと語っていた(前編参照)長居第一でした。しかも第二のサブ、普段大勢人が集まり試合するところをなんとグッズ売り場だけで使うという豪華っぷりでした。
このライブのせい(?)でその前日前々日にあった陸上の試合が毎年ここでやっているのが少し立地が不便な万博のグラウンドになったことで一部の人に恨まれていたのは懐かしい思い出です。

やはり大きいので大体の人がチケットに当選し、同好会も大勢集まっていました。グッズも過去色んな演出で用いられたものをモチーフ、俗に言う復刻版のものが多く、昔からのファンや僕たちみたいに若くていけなかった人達にも優しいサービスでした。
それにより松本さんが25年前くらいに履いていた金玉見えそうなくらい短めのゼブラパンツを買って僕もライブ中は履いていました、そしてガチャガチャ(1回500円)でお目当てのエピックブラというブラジャーのキーホルダーを12回目で獲得したので今もリュックにぶら下げています。

ライブは2日間どちらとも行き、1日目は大学陸上部のどちらもB'zファンである同期と先輩の3人で行きました。B'zのブログでは無いので多く語りませんが、みんなが知っている一番盛り上がるであろう「ultra soul」を初手で演奏するようなライブといえば凄さが分かるでしょうか。他の曲もアニバーサリーということもあり、有名なシングルから多く出されました。
バラードで突然雨が降り、盛り上がる曲で晴れるという奇跡を起こし天気まで味方にしたB'zはもはや神々しささえ感じました。
2日目はB'zを教えてくれた高校陸上同期と行きました。彼もすでに他でライブを観ていたので大体の流れがお互いに分かっていたものの、何曲かはやはり違う曲も混ざっており、その中でもZEROという曲ではなんとスペシャルゲストとしてブラックマヨネーズの小杉が参加しており、ライブも笑いに包まれました。

そして稲葉さんは今年の途中は喘息で声が出ない時期もありました。それもファンのみなさんに支えられたから頑張れたと言っています。稲葉さんは天才なのに人一倍の隠れて努力する人でしたので内心は凄い悔しかったのだと思います。
それが最新の歌詞では「同情はいらない」といったニュアンスの歌詞がものすごく多く出てきました。これを見てからは稲葉さんには声が出ない時とかはやめて、と言うより出せるやろ!と言った檄の方がおそらく力に出来る人なんだろう、僕はと言えばまだまだ温かい同情の方がパワーになるものです。まだまだ未熟なんでしょうかね。そんなことを考えてたりもしていました。

ちょうどこのライブが終わったあたりで彼女がドイツから帰って来ました。その直後に一緒にごはんを食べに行きました。毎日LINEをしていたので1ヶ月ぶりって感覚はあまりなかったですが、やはり直接会えるというのは心がグッと満たされるものでした。
また、ギリギリ夏休みだったので僕のお気に入りの府大の後輩と彼女でどすこいパーティーと呼ばれる鍋パを後輩の家で催しました。短いスパッツくらいの丈であるゼブラパンツを穿いて来たので本気で彼女にどん引きされましたが、まあ全体的にアホをして楽しい会でした。

しかし、彼女がドイツでいなかった裏では様々なことが繰り広げられていたのでした。

第八章 災難

合同合宿後は気が引き締まっていく…とそう思っていました。
良かった点と言えば大谷大の先輩は卒論があるということで練習に参加しなくなったことくらいでしょうか。正直肩の荷が下りた感覚を覚えました。
まず個人として悪かったことと言えば一週間くらい腹痛が止まらなかったことでした。歩く振動だけで腹が疼き、1週間で2kg痩せてしまいました。これは現役としてはかなり痛手で筋肉の低下と体力の低下につながりました。
また、不整脈も今までストレスが溜まった時だけ発動していましたが、ついにその腹痛が治ったくらいのタイミングでしょうか、陸上で走った時にも起きるくらいに悪化していました。さすがに陸上に支障が起きてはマズいと思い、まずは工繊の保健室で軽く見てもらった後、京大病院へ行ったら?初診の招待料金は私たちの紹介状を書けば無料だからと言うことで大きな病院へ潜入しました。ここでようやく理由を知ることができる…

と思ったら色々測られた末に簡易的な心電器を体に装着させられ、これで1日過ごしてね…ということで本当に部活の時、バイトの時、そして風呂の時までも着けていました。今時の機械は水につけても大丈夫だなと感心していました。

また1日付け終わった後はランニングマシーンで限界まで走り続け、その心拍数や乱れを測っていました。そしてようやく診察室で先生と会い、緊張で動悸が起きそうでしたが結果は不摂生によるストレスと生活習慣の乱れと診断されました。
これからは注意して下さいね、その一言には11000円分の重みは全くありませんでしたが二度と払いたくないし、それさえ改善したら治せるのでちゃんとしようと思いました。

具体的にはカフェインを過剰に摂取しない、睡眠を取る、身体を無茶させない、ストレス源から離れる…あれ、無理じゃね?
でも無理な徹夜はしない、コーヒーやエナジードリンクは1日0~1杯に抑えるとせめて出来ることを努力しました。すると少し治ってきて再び陸上では出ない状況にまでは戻ったのです。(精神的負荷ではまだ発症しました。)まあ、個人としての悪化はこれくらいでしょうか。

次は様々なストレスを抱えてしまった原因について話したいと思います。

不幸は…ドミノだ…一度倒れたら止められない…

まずは合同合宿をインターン面接を理由に休んだ彼だ…結局その面接はなかったらしく彼の好きなラブライブ!の活動に勤しんでいた事を知り少し苛立っていましたが、合宿最終日くらいだったでしょうか、裏で彼は交通事故に遭い、両腕を骨折するのです。
これにより1ヶ月部活に行くことはありませんでした。彼はマイルメンバーであったのでつまり、実質マイルメンバーの解散でもありました。こんなあっけない解散は良いのか…僕はそう思いながらも彼が戻ってくることを待っていました。
更に追い討ちをかけるように3つ上の同期、これまたマイルメンバーの1人がケガ、そして100のエースもケガで一時脱退、また速い彼が抜けたことで大型ルーキーである後輩は僕じゃ競い相手にならないからかサボリが目立ち、それに伴っての1つ下の代でもサボる人数が増えていきました。

そして長距離の1人が免許合宿で離脱、宴会担当の同期も腹痛、更に更に幅三段の先輩が盲腸になり、僕もいわば腹痛と不整脈だったので事実上崩壊しました。

それでも僕は頑張って試合には出ていましたが400での限界を正直感じていました。なので10月の1つ大きな試合を最後の400にし、マイルもこれで最後にしようと思いました。
そしてそれからは100や200に変更しようかなと少し考えていたので、短い距離に特化した練習もこの時期から模索し始めます。

10月の試合で最後のマイルにしようとしていたのでさすがに途中から骨折した彼も復活しましたが、練習不足がたたり今度は脚を痛めます。
またマイルの予選日に授業があると言うことで出場をハードルの個人だけにし、この大きな試合でのマイルの出場が無くなりました。
つまり、目標は走るということすら無いまま消失してしまいました。

そして僕らの次の後輩の代に引き継ぎをしないといけないので主務や副務といった裏で支える仕事は後輩に引き継ぐ準備を始めていました。

副務はエントリーなどを行う人で2年ほど3つ上の同期がやっていました。それを100mで一番速い後輩に託そうと9月の後半の試合を頼んだのですが、エントリーに工繊すら入っていませんでした。

どういうことや?と思いその後輩にLINEを打ち、電話するとちゃんと送ったということでした。
どうやら宛先を微妙に間違えたらしいです。(これは正直ややこしかった)
そのショックか彼はかなり落ち込んだ声をしていましたが、僕は彼を信用していなかったので演技だなと思っていました。昔から練習は来たり来なかったりで体調不良などを理由にしてよく休んでいたのが僕としての彼への信用を下げた主な原因です。

そして夏休みが終わる頃、彼は僕たちに相談してきたので副務についてかな?と思いましたがどうやら部活を辞めるというものでした。
確かに休みがちで練習も本気で走らなかったとは言え、彼の実力は本物で大学内では1番でした。

4継メンバーも立て直しようやく最後のリレーをやるって決めた時でした。しかし、彼の辞める意志はかなり高く、しかも今辞めたがっていました。

せめてあと1ヶ月の今季、あとリレーだけでも…今君が辞めることはかなりの人に迷惑をかけることになる。それは君がエースであり、リレーメンバーであるからだ。少なくともまず彼らには直接謝るんだな…

しかしそれはどうしても嫌だと言うのです。(こいつかなりズルいやつだな…)話していくうちに彼の無責任な発言が目立ち段々と真相が分かってきたのです。

彼は元からものすごい「受け身」的な人間でした。やらされたことをやるだけで自分から何かをするってことはそういえば一度もありませんでした。その理由はそもそもそういう人間であるということと、それを変えるまでの陸上への熱量がなかったということです。
それがいきなり仕事を与えられると「能動的」にならないといけません。おそらくそれが彼にとっては苦痛だったのでしょう。今まで何もしなくてよくただ走ってれば良いだけだったので陸上を何とか続けられましたが、役職というものにこだわりがあったことから、このまま今季まで続けてしまうとなし崩しに引きずって部活を続けさせられると判断したために起こした決断だったのでしょう。
そう思うと、ミスをしたのは「わざと」で自分は役職に向いている人間ではない、他の人に変えた方がいいということのアピールにしか見えなくなっていたのです。
何となくそれを察知したのですが、僕はそんな依怙贔屓はしたくなかったものですから次頑張ればいいとだけ言いました。おそらくそれが辞めるきっかけとなったのでしょう。

彼は僕が辞めたのを先輩がみんなに報告していただけませんかと言ってきたので、ほんまに無責任だなコイツはと思いながら、辞めてもいいけど絶対にリレーメンバーにだけは言え!それが言えなかったら陸上は続けてもらうと言い、立ち去って行きました。

多分、「迷惑かけてる、怒られる」ということが嫌なんだろうなと思いつつ、自分の撒いてる種でもあるので逃がすまいと思っていました。

そして後日彼はリレーメンバーで集まりその旨を話したかと思います。
案の定、メンバーは怒っていました。4継は7月の試合ベストが出たものの、ミスが目立ちまだ伸びしろしかありませんでしたが、ケガや留学で4人は揃わず、やっと復活して最後の試合ベスト出すぞ!と息巻いてたタイミングだったので彼の退部を素直に受け止められないのは当然のことでした。その責任感の無さに僕ならキレていると思います。

僕は主将だからこそおそらくその責務ゆえの怒りの感情が沸いたのだと思います。彼には頑張って欲しいという期待、それを裏切られた訳ですから。
しかし、僕単体で言えばあんまり怒ることはありません。なぜなら最初から期待していないからです。特に彼みたいに受け身で薄っぺらい人間には生理的な嫌悪があり、興味そのものが生まれませんでした。
僕はこれまで色んなことを乗り越えてきたという謎の負の自信が恵まれて育った人への半ば八つ当たり的な僻みと憎悪があったのでしょう。どちらにせよ僕はまだまだ人の悪い部分を受け入れる器がありませんでした。

夏休みが終わり9月末にはスポーツ祭典という毎年誰でも参加できる大会があり、OBなども参加したりしていました。1回の時は400で2位、2回はマイルで2位になっていました。滋賀と京都があったのですが滋賀は2回の時に最後となり大会そのものがなくなり、京都は今年最後でした。なのでマイルメンバーはもちろん、長距離もマイルに出る予定でした。マイルメンバーは1人少なかったので400専門にしてた同期を加えた4人で走るつもりでした。
しかし、ちょうど台風がこちらに来ており、なんと前日に中止となったのです。当日そこまで台風も強くありませんでしたので、いやこれなら出来たやろと少しイライラしていました。
しかも2種目で4000円ほど払ったお金はキャンセルされず、4000円は毎年戴けるタオル一枚に生まれ変わり、元々苛立った心は爆発していました。

ということでマイルも4継もどちらも7月で幻のまま消滅してしまったのです。
400mを個人では走りますがやはりリレーとなるとモチベーションは更に上がるわけですので無くなった時の落差はとてつもなく大きいものでした。

こうして災難続きの9月が終わっていきました。

第九章 逃避

10月からもまだまだ僕に試練を与え続けていました。
10月は主将の提出作業が多かったためサービス課と話し合うことが多くなりました。
除草剤を夏休みのタイミングで自分の指定した範囲だけではありましたがきちっとやって下さっており、草はとりあえず枯れていました。そういったことをしっかり感謝の意を申し上げました。
サービス課の1人が草の状況はどうですか?(いや、見てねーんかよ)いや、枯れています。ただこれは一時的なものだと思いますのでこれからもよろしくお願いします。そう言うと困った顔をし、

それがねー、これは一度きりなんだよね、テニス部のね、照明が切れかけなのよ…そのお金が必要で…陸上部をずっとひいきするわけにも行かんしね~一応お金出したわけだし、正直次は優勢順位表低いんですよね~
ともっともらしいことを言っていたが、そういった照明切れる分の予算も少し入れとけよと思ってしまったし、それ以上に陸上部のグラウンドじゃねーし、みんなのグラウンドやのにみなさんの部活が発言しないから僕が先立って言ってるのにそこだけ何で陸上部扱いなんだよ、除草はむしろ学校の問題だろ…と思いましたが、怒りに任せると目的を見失うので
冬休みはあまり草も生えないのでせめて来年度によろしくお願いしますね。
と言うとそうですね、検討しておきます。担当が変わるとこの作業も無くなるかもしれないからそこはよろしくね、と最後に逃げのようなセコい一言でブチン!と鳴り(いや、そこは引き継げよ…いや、無くなったらもっと迷惑やと思われるくらい除草剤について訴えてやる…)という目線を彼らに向けながら去っていきました。
くそ、何一つ好転しねぇ…一回じゃこの草は枯れないんだよ、彼らはそれを深刻に思ってないからナメてやがるな…
それでも諦めることは無く、除草剤の件については前期の時同様食らいついていました。

10月の大きな試合に向けて始めたのは京大の練習に参加するということでした。府大の先輩で京大とズブズブの人がいて、僕や3つ上の同期なども一緒に速い京大の人達と練習しました。
京大は1周500mのタータン(ゴム質のレーン)で人数もかなり多く集合こそ厳しかったが割とルーズなかなり良い環境でした。そこでの練習で身体と精神を鍛えていきました。

ずっと悪い雰囲気でしたが良いこともありました。弓道部から辞めて陸上部へ中長距離をかつてやっていたという1回生の後輩が入ってきました。これはかなり大きく、駅伝がこれでちょうど6人になるからです。長距離にとっては渡りに船状態でありました。

僕も400ラストということで身体を万全にして臨みました。しかし前日から心臓部分が激しい痛みがありました。しかし、いける…と言い聞かせながら
も現実は虚しく良い結果は出せませんでした。
今はこれが限界か…100%の力は出したので後悔はありませんでした。
これからは100と200をまだ良いタイムを出していないからこの1ヶ月で結果を出してから主将を引退しようと思っていました。

同期の彼女は後期になってから研究室配属となりました。第一希望ではなく、第二希望となりました。彼女は鬱病などの脳について研究するのが夢でした。本当は薬学関係に行きたかったと言っていましたが、浪人して前期にまた落ちて後期に工繊に来たのです。
なのでぴったり自分のやりたいこととは当てはまった訳ではありませんでしたが、それに近いことができる研究なのでそこまで不満というわけでは無さそうでした。
しかし、コアタイムなどが長く、平日は帰るのが9時以降、起きるのは毎朝7時といわゆるブラック研究室でした。研究対象が1000を超えるショウジョウバエでエサをあげたりその寿命を測るために日曜日も毎日張り付いて育てないといけないといったものでした。
深夜一時には寝ないと相手もしんどいので自然とLINEする頻度も時間も少なくなっていきました。
減って初めて僕は彼女に相当依存していたのだと気付きました。そういえばつらいこと逃げたいことがあれば彼女に逃げていた。しかし、彼女もまた自分のことで精いっぱいになって僕のことには冷たくなっていきます。
また同じことを繰り返してしまうのか、いや良くない。与えられるばかりではダメだ…俺が支えてやらないと…!そう思いましたがそのセリフは自分がしっかりしている上で発言しないと共倒れするだけです。
ストレスと救済を彼女に無意識下で押しつけてた事を反省し、まずは自立をしないといけないなと思いました。

もちろん、コアタイムの関係で彼女は部活の練習に参加できなくなっていたので、僕と2人でやろうということを提案し、一緒にやってたりしていました。それが色んな話ができてものすごく楽しくそれがあったからやっていけました。また一緒に走ろうね…その一言がどれだけ僕の心を救われたことでしょうか。
僕は必要とされた人を好きになるんだな、改めてそう感じたのです。

僕は逃げていました。逃げるように彼女を追いかけました。何に逃げていたか、「現実」です。

就職活動…就職活動…就職活動…僕は全く考えていませんでした。そして僕は未来に生きることを考えていませんでした。というより、僕はそれを忘れるために陸上に打ち込んでいたからです。

僕はそもそも陸上引退したら死のうと思っていたからです。(高校編②参照)それまでに生きる目的を探そうとしていましたが、陸上では少なくとも自分のやりたかったことを出来たと思っています。
個人についてもそうですし、チームとしても主将として頼られ必要とされたこと、それらはものすごく満足いったのでした。
しかし、裏返すとその陸上を失うということはそれらの生きがいも失うことになります。頼られていたのは「主将」の僕だったから。それを失った僕なんかに頼ってくる人はいないと思っていました。また満ち足りたということは生きる目的も達成された、つまりこれ以上充実したことが無いのなら生きる必要は全くないと僕は思ったのです。

だから僕は陸上にずっとしがみついていたのかもしれません。それは生への足掻きというよりもその本質から逃げたかったからと言えましょうか。

なぜ逃げていたのか…社会人以降で僕は満足したことが出来ないだろうと感じていたからです。
僕は社会で生きる上で苦労する性格でもあります。なぜならコミュニケーション能力も無ければ要領も悪い、しかも意欲や好奇心が全くなくお金を貯めたいわけでもない、偉くなりたいわけでもないそんな人間は社会人に対するモチベーションは皆無に近かったです。
面接では間違いなく夢や動機など聞かれるでしょう。僕が工繊の建築に来た理由は受かりやすい条件であったから、それ以上でもそれ以下でもなく、大学ではデザインに対する発想力の薄っぺらさに絶望し、知識さえ得れば何とかなると思ってた建築も言えば発想力は必須でした。

3回の後期では設計、計画、都市・歴史、構造、設備と大まかに分かれました。工繊では設計を中心にやっていましたが、僕には向いておらず、物理なども苦手だったので結局都市・歴史しか残っていませんでした。

しかし、都市歴史でどういう仕事をやるのか見当もついていませんでした。建築以外に何かやりたいという意欲があれば良かったのですが、トーク力もないので文系職はまず無理で機械音痴なのでパソコンを使うような所も難しい、他の役職はもっと向いていない自分は結局建築から逃げることは出来ませんでした。

全てはタイミングであるならば死ぬ選択をするのもタイミング次第だよね、そうさせたのもいくつもの選択の連続なのだから。でも僕はまだ足掻く選択肢を決めました。僕だってまだ死にたくはないのです。
理由は2つあってそもそも死ぬことが生きることよりもまだ面倒くさいと思っていたことです。それと自分の全て出来る可能性を潰して死ぬ方が気持ち良く死ねると思ったからです。つまりこの就職活動はいわば僕にとって死に場所探しの延長みたいなものでした。

全力でやる者にしか奇跡は起きない。僕はONE PIECEを読んで心から納得したフレーズの一つです。何もせず自分は向いていないとだけ愚痴を吐くのは気持ち悪いことでした。なので決められた時間だけ足掻き、その結果が上手くいったなら運命は僕を生かしたと判断し生きてみる、全然上手くいかなかったら自分は生きる価値が無い、つまり死を意味しました。
就職活動期間が完全に僕にとってのラストチャンス、400を引退したあたりで僕は心に決めました。今になってはその考えが僕の命をつなぎ止めたとも言えましょう。

一度就職活動相談センターへ行き、何も決まってなくて…何すればいいでしょうかね…したくないことだけ伝えて、相談相手に聞いてみました。すると最近は不動産やデベロッパーとかがいいかもね~と言われました。体育会系なら多分大丈夫だよ(体育会系ね…まあ、それより設計がないしそっちの方がマシなのかね…)と言われましたが、あんまり実感は湧きませんでした。
それよりも就活マニュアルを貰えたことの方が自分にとってこれからやることが分かってきたので実感が沸きました。

また、2つ上の学科が同じだったマネージャーで当時社会人だった先輩にも先輩の状況や就活についても聞いてみました。先輩は設計でした。建築はどの業界もブラックだよ!あと営業とかは絶対止めとけ、コミュ力ある私でもかなり凹んだもん、確かに先輩はコミュ力の塊だと思っていたのにそれでも足りないのか…僕の親父もかつて営業であったことを思い出しながら、先輩は、やっぱ技術系の方がいいよ、そこまでトーク力いらないしね。とアドバイスを頂きました。

うーむ…どうすればいいのだ…無知な僕は分からないということもあったのでチャンスがあればどの職種であっても見てみようと思いました。が、やはり就職活動を考えるのは何から手をつければいいのか分からず憂鬱でしたのでその度にまた陸上へと逃げていきました。

第十章 ピーク

僕はラスト400の試合が終わった4日後に100の試合が待っていました。もちろん、その2ヶ月前…夏休みあたりから100mの研究をしていました。なぜ400ばかりやっていたのか。それは本番でスタートダッシュをミスしても走れば取り返せるからです。
100はスタートダッシュが命なので、そこが失敗すると全体も遅くなるのもありますし、そもそも絶望的にスタートダッシュが苦手なとこがありましたり。また100mは距離的に物足りないところもありました。なので練習では400の練習をしながらも短い距離を走る時には特に100、200を意識した走りをやってみました。
400は確かに楽しいものですが体力的に向いておらず、可能性としては100、200の方が良いタイムが期待できました。100、200は400よりももっと考えて走っていかないと上がらないとも知っていたのである程度考えながら自分の身体に理論を染み込ませていきました。
僕はあまり理論などはありませんでしたが、かつて先輩にお前は無意識かもしれんけど速くなる走り方ができていると言われたように、少し理論を理解すると3~4回走れば身に付きました。これは要領が良いというより9年陸上を真摯に取り組んだ賜物だと思います。

そして今まで11.71秒だったのがこの4日後の試合で11.31秒と0.4秒も自己ベストが出たのです。しかしまだいけるな?という感覚でした。
その1週間後もう一度100mに出場するとスタートも上手く決まり11.25秒…またもやベストでした。

意識をしないという意識、100mを走る上では一番大事でした。もちろん、まず走ると何かしらの問題点が出てきます。それを改善しようとその部分を意識します。そうすると少し遅くなります。なぜならその部分に意識している分、がむしゃらに走るよりかは考える方にエネルギーを使ってしまうからです。これをいくつかやり、無意識に正しいフォームに持っていく、すると本番には正しいフォームが無意識に出来上がっていったのです。

本番は緊張するのでどうしてもこれまでの練習は正しかったのか、コイツに勝てるのか…という不安が舞い上がってくる人もいるかもしれませんが100m、200mはレース展開を考える必要もない、いわば自分との戦いなのです。そのマイナス思考、そしてポジティブ思考ですらエネルギーとなってしまうので、何も考えずに走れた結果がこの1週間の0.06秒差にはありました。

その後4継があることを知らず4継メンバーではなくマイルメンバーを中心とした僕を含めた布陣で挑みました。僕はと言えば4継にいくつか試合に出たことがありますが滅法肩が固くバトンが上手くないので技術面で外されていました。
しかし、本当に大事な時は成功する謎の自信があり、4走でしたが上手くつながり見事1位になることがでしました。大学記録としては2位でしたが、名前に僕が残ったのは嬉しかったです。

もちろん走法を染み込ませたから速くなりましたが、やはり彼女と一緒に練習することで心が満たされたことも大きな飛躍の要因になりました。また、彼女も800mでベストを出し自分のことのように陰で喜びました。いつもここで打ち上げがあるのですが彼女は試験のため参加せず少し最初は落ち込んでいました。

翌日、その試験後に彼女から誘われ2人でごはんに行きました。僕はここで「好き」と言おうと思っていました。しかし、肝心の言葉はいつもつっかえていました。なぜなら、失敗した時に失うのが怖いから、まだそれならこの関係のままで良いのでは?と抑制していたからでした。ボディタッチはやたら気持ち悪いくらいできるのに、なぜこの二文字が言えないんだ……。僕は僕を責めました。

その一週間後には今季ラスト試合、200mがありました。奈良の試合だったので兵庫出身の同期と同期の彼女を試合に誘い3人で行きました。風の強い日で追い風が強くなりすぎると参考記録と言い非公認になるので、あーこれは気持ち良さだけ感じて帰ろうか…とそう思ってはいました。
100mと同様にプランを立て、自信を持ち心は無にして挑みました。すると思ったよりもスピードが出てレーンで3位でした。今までのベストは22.83秒でしたが明らかにそれを超えた感覚はありました。個人的には22.5秒くらいかなと思っていましたが22.28秒!?しかも追い風1.4m!?公認記録!?しかも当時の大学記録は3つ上の同期で22.5くらいだった気がします。とりあえず大学記録歴代1位を樹立したのです!!

個人競技でまさか自分が1位になるとは思ってもいませんでした。嬉しさよりも驚きでした。
彼女は400を走っており、何とまたまた自己ベストを出しやはり相乗効果になってたのだと思います。

そして11月某日、彼女は前々から観たがっていた映画ボヘミアン・ラプソディを観に行くことにしました。何せ彼女は根っからのQueenのファンで半年前くらいからずっとこの日を待ち遠しにしていました。そして同時に映画が終わったらしっかり自分の気持ちにけじめを付けよう…そう思いました。映画は感動したものの、彼女はやっぱ本家がいいやと唯一本家が出てたエンドロールに感動していました。

帰り道、僕はずっと緊張していました。周りが気になり喉がつっかえ続け当たり障りのない話や仕草で紛らわせます。ついに、僕はバイトまで時間あるしあそこで喋らないか。と切り出します。あそこは京都民なら分かる出町柳のデルタです。
そこに2人座り、俺は○○のことが好きだと思ってる。君は俺のことをどう思ってるか、それだけを知りたい。すると彼女は「分からん」でした。いやいやいや、ここまで言うたのに…すると手を肩あたりの高さに伸ばしこのくらいと言うてきました。
???え?混乱に混乱を重ねた僕はその高さって富士山よりも高いの?と聞き返し、彼女は富士山そのものだと勘違いして、あー富士山よりかは好きやでと返されました。??何もかも話がつながってない…しかし、彼女の顔は少し緊張から放たれて笑顔がこぼれ始めていました。
想定してた答えじゃなかったので、あーそうなのか、付き合いたいってちなみに考えたりしてる?
そう聞くと彼女は考えさせてくれ…と30秒ほど黙って「付き合っても申し訳ないことになってしまったら申し訳ない」の一点張りだった。
僕はその言葉の真意をまだ理解できていなかった。
彼女は前にも言った通り生きている人で好きな人はいない。自分が好きではないのにこの関係を続けてしまうことに申し訳なさがあるというのか、そう思ってる間にバイトの時間になっていました。「食べ終わるまでに答え出すわ」彼女はそう言って僕はバイト終わりにLINEを見ると、「色々考えたけど考え疲れたから付き合うことにするわ。」これが僕と彼女の新たな関係の始まりになりました。嬉しいというよりかはこんな始まり方もあるんだなと、少し冷静になっていました。

これが僕のピークになるのかなと当時は思っていました。
陸上ではそこそこ人望も増え、マイルでの優勝、個人での歴代記録を手にし、やりたかった合同合宿などもできました。そして念願の彼女を手に入れることもできました。

普通の人ならピークを味わえたなら生きようと思うのかもしれません。しかし、生きる意味であった400m50秒切り、そして陸上で全力を出し切る。この2つがもう達成され、これ以上の悦びをもう味わえないのかと悟った僕は真剣に悩み始めていました。死を。

大学編③-3へ続く