~誹謗中傷はなぜ無くならないのか~

おっす!おらにわか一人暮らしサバイバーのくみこ!!
もう一人で居すぎて頭おかしくなっちゃいそうだ…おねげぇだ!おらに現金を分けてくれ!!

…という茶番は置いといて最近、誹謗中傷 誹謗中傷うるさすぎないか??そんなもんやったら駄目だということくらい分かるやろ…と思っててもまだまだ蔓延してるし面白…と思ってしまったけど笑ったら駄目やね、本気で一度見つめ直す必要があるんじゃないか。

ってなわけで本日は巷で流行りの「誹謗中傷」という言葉、なぜ人は誹謗中傷をしてしまうのか、そしてなぜ誹謗中傷はいけないのかを語っていこうと思う。

ーー・--・--・--・--・--

ー目次ー

1.1 誹謗中傷とは
1.2 言葉の威力
1.3 一次的な誹謗中傷
1.4 二次的な誹謗中傷
1.5 自分に出来ること

2.1 まとめ

ーー・--・--・--・--・--


1.1 誹謗中傷とは

そもそも誹謗中傷とは何か?意味を調べると「他人をそしること。あるいは徹底的な悪口を言うこと(Wikipedia)」である。そもそもそしるとは誹るとも謗るとも書き「他人を悪く言う、非難する(デジタル大辞泉)」ことを意味する。(漢字自体では大きな違いは無いらしい)

一方で中傷とは「根拠のないことを言いふらして他人の名誉を傷付けること(デジタル大辞泉)」を指すので、中傷という言葉により悪質で非難的な意味を強調させたのがこの誹謗中傷といったところであろうか。

○○ハラスメントなどといった嫌がらせやいじめなどの全ての嫌がらせの総称と言っても差し支えないだろう。(ってか誹謗中傷って言葉の仰々しさがあまりイメージが湧きづらく良くないのかもしれない。悪質ハラスメントみたく伝わりやすい言葉にした方がいんじゃね?)


さて、本題に入っていこう。

今回なぜここまで誹謗中傷が取り上げられたのか。それは誹謗中傷により若い女性の命が失われたからである。
しかもその人はテレビ番組にも出演していた著名な人であったことから彼女の死は凄まじく世の中に影響を与えていったのである。

彼女の出演していた某番組は私の趣向とは異なっていた為観たことはあまりないが何となくの構成は理解している。リアリティを追求した恋愛ドキュメンタリー番組で本来ドラマなどでは出せないような何が起こるか分からない恋や人間関係の生々しさが自身の人生に投射しやすいこともあってかウケているのであろう。

登場人物は男女複数対複数でシリーズものであるかがゆえに飽きさせないための措置としてより面白いストーリー展開や過激なものにシフトしていく。

より楽しませるための手っ取り早い方法としては「ヒール役」を作ることである。つまり誰か敵を作ることで演者内でも、また視聴者間でも共通の「敵」を認識させることで被害者側である「悲劇のヒロイン」を応援していくという仲間意識が生まれ盛り上がっていく構図を作ることである。これで一気に非難がヒール役に集まり見事その期待に応えヒロインがハッピーエンドになると(某番組の結末は知らないが)満足度を得られる仕掛けである。これは漫画だとよくある展開だろう。

しかし、現実はそのヒール役も人間なのである。非難を力に変えられる人もいれば傷付く人だっている。
この番組の場合、番組の環境自体がすでに誹謗中傷の温床地帯であり違和感に気付いていない人、あるいは気付いていたとしても止めることのできない状況だった。そして死という最悪の形でようやくその違和感にみんなが気付かされていったのである。


誹謗中傷の恐ろしさの1つがこの加害者意識の薄さであり、この事件を受け誹謗中傷はダメと言った人が今でも平気で誰かに誹謗中傷しているケースだって少なくない。

かく言う私もそんな人間にはならないと心に決めているが知らず知らずのうちにふとした言葉で誰かを傷つけている可能性だって十分あり得る訳である。

そしてその判断は全て受け手に委ねられるという点でこれはパワハラ、セクハラ、いじめなどを想像すれば容易だろう。
「誰に」言われるか、「どのタイミング」で言われるか、「どういった内容」なのか、「どれくらいなら許せる」のか…などシチュエーションによって大きく異なるため明確な線引きが出来ないのも誹謗中傷が消えない大きな原因だろう。

例えばいじられ役としてバイキングの小峠さんが私は真っ先に思い浮かんだので彼を用いて説明すると、テレビではハゲいじりとして顔がち○こや金○玉みたいだと罵られているのをよく見かける。それについては全て言い返し笑いに変えている訳である。
そう言ったやり取りを私たち一般人は見ているので「この人はいじってもいい人」というものが刷り込まれているのでネットでもそう言ったいじりが横行しているのである。
しかし、それらのいじりは誹謗中傷とは言われない。それは小峠さんが「黙認していて訴えていない」からなのである。
いわゆる仕事として美味しい立ち位置であり自分の役割をそのいじられることとして受け入れているからである。
例えばいじりのやり取りで心が傷付いたと小峠さんが発言したその瞬間に誹謗中傷となりうる訳である。

もちろんこの同じやり取りを違う人にした時にその人が傷つけば誹謗中傷になるし、そう言ったグレーゾーンなやり取りはどこにでも起きている。
そういったコミュニケーション方法は基本的に楽に面白みを得られるので身近でも思い浮かぶはずだ。

自分が何気なくいじったりしている時にもしかしたら相手は傷ついているのではないかと考えながら発言するのが大事である。誹謗中傷は常に身の回りに隠れているということを忘れないで欲しい。


1.2 言葉の威力

言葉の威力と書いたが傷には大きく物理的な傷と精神的な傷がある。言葉は精神的な傷を付けていく。物理的な傷は目に見えやすい分気を遣いやすいが精神的な傷はパッと見て分かるものではない。その傷の最大の原因は言葉と言っても差し支えないだろう。

心の世界というのは自分にしか介入できない。なのでどれだけ悪質な言葉を浴びせられようが直接心をえぐることは出来ない。自分の心が屈強であれば傷一つ付かないことだって出来る。

逆にどれだけ励まされても相手がその人の心を直接癒やすことは不可能なのである。
「相手の言葉」をきっかけに自分が感銘し「自分の意志」で自分を癒やしているのだ。

なぜ人は病むのか?それは心が弱っているからである。身体と同じで弱っていること自体で人は悪化するのでなく免疫が落ちることで普段ではかからないような病気にかかってしまうことで病んでいくのである。つまり誹謗中傷とはその病気の1つなのだ。

普段からその誹謗中傷というウイルスに溢れているが健康な状態では受け流したり受け入れたりできるものが、弱っている状態では溜め込んでしまったり傷ついたりするのである。

その強い弱いは日々刻々変化していき「病は気から」とあるように気分1つでも大きく変化していく。
という面では誹謗中傷というものはたとえ元気な状態でも良い気にならないものである。知らず知らずに誹謗中傷に抗うためのエネルギーを余計に消費していることになる。そしてもう弱った頃には跳ね返すためのエネルギーは残っておらず自殺するといったパターンもあるだろう。

たとえその言葉の一撃に重みはなくともそれが複数回、複数人と重なっていけば人一人殺せるほどの大きさになりかねない。それが言葉の威力である。

今回誹謗中傷を原因に亡くなってしまった彼女も全員が全員アンチという訳ではなく、応援していた人も大変多くいたと思う。
しかし、それ以上に浴びせられた嫌な言葉の数々が温かい言葉も遮り、傷ついた心まで届くことが出来ずに重みに潰されてしまったのだろう。

言葉は時として凶器ともなるし、このように役に立たない時だってある。ただどちらにせよ慎重に考えて責任のある発言を心がけよう。


1.3 一次的な誹謗中傷

私は大まかに誹謗中傷を「一次的誹謗中傷」と二次的誹謗中傷」に分けた。

SNSの炎上を例にすると誰かが誹謗中傷を伴った失言をしたとして、その失言者に対しての誹謗中傷に溢れて炎上したとする。その場合失言した人が「一次的誹謗中傷」でそれを煽るかのように非難する人達を「二次的誹謗中傷」とし、この章では一次的誹謗中傷について語っていこうと思う。

一次的誹謗中傷は大まかに数種類に分かれる。
1つは悪意は無いが無意識的なものだ。俗に言う失言と呼ばれるものだ。
これについては事の大小あれど今まで生きてきて気付かなかった部分や、思慮が浅かったことで起き、自分自身が反省さえすればそれ以降の誹謗中傷は無くなるだろう。

もう1つは自己逃避によるストレス発散である。人は生きていると少なからずストレスと向き合うことになる。その発散方法というのは様々存在する。その中でも誹謗中傷というものは発散方法としてかなり悪質で他人に迷惑をかけ傷付けるものである。

なぜ誹謗中傷をするのかと言うと根源としては他者への妬みや嫉みが挙げられるだろう。
これは自分自身に不満足な状態であるからこそ上手くいってたりする他人を見てその人を貶めて攻撃することで欲求を得る行為である。

自分の魅力を上げるよりも他人を下げる方が楽という点が何より根底に存在し、自分の幸せより他人の不幸の方が快感になっていくのだろう。
標的はある特定の人であったり、ただただ自分のストレスを発散出来れば誰でもいいというパターンもある。

後者はタチが悪く融通の効かないクレーマーがまさしくこのパターンが多い。
そういう人は動機も根拠も空っぽで非難し、聞き入れるだけ無駄なので健康な状態では脳を動かさず聞き流すのが無難である。

残念ながら「そういう人間」は一定数存在するのがこの世の中である。
そういう人間とは自分のことしか考えられない極端に視野の狭い人間のことで、常識や倫理観で説得をしようとしても無駄である。

今回の感染病による自粛で痛い程分かったと思う。どれだけ自粛を要請しようともパチンコ屋に行く人はいるし、高熱の中移動する人もいるし、マスクなど大量に買う人だっていた。

指摘、注意喚起する事はもちろん大事だがもはやそれは収まらないことを分かった上で行わないと世の中に絶望を感じるだけである。

彼らは身をもって痛い目に遭わないと、いやそれをしても分からない生き物である。そんな人達と上手くやっていくには発散させるまで言いなりになって共感してあげるか、最終的に無視をしたり距離を置くしかない。
しかし、こういう人達を可哀想とワンクッション挟んで考えてあげ、ある種の諦観を覚えればストレスをかなり減らして過ごしていけるだろう。

しかし、タチが悪いのはこれから話す「二次的誹謗中傷」だ。今回の感染病で開店前のパチンコ屋に大量の人が集まったことに対して、大変多くの非難の声が届いた。パチンコ屋の前で大きなデモが起き、メガホンで「パチンコ屋に並んでるそこのお前達は本当に日本人か!!日本語も理解出来ない在日外国人か!?こんなのが日本であっていいのか!?子ども達が見てる!!子ども達が見てる前で恥ずかしいと思わないのか!!」
こういった主旨のデモが20分ほど耳が刺さるほど大きな声と人数で行っていた。

そのメガホンの言葉をそのままあなた達に返したいという気持ちに私はなったし、恐らく他の読まれてる方もそうだと思う。
なぜここまで彼らをデモをさせるまで駆り立てたのか、それは正義感であり、これこそが「二次的誹謗中傷」の根幹にある醜い部分である。


1.4 二次的誹謗中傷

まず悪い人をみんなで叩くという構図が直近でますます多くなった気がしている。1つは自粛となりストレス発散源を外部に持っている人間もみな内向きになり、世の中全体も暗雲が立ち込めるようなじめじめとし、物理的にもまた精神的にも窮屈になったことが言えるだろう。

より自分や他人について向き合う時間が多くなり、違反を犯す者に対しての怒りは自分が我慢している分より溜まっていき、そのイライラを何かに向けて発散する上で格好の餌食になるのがそう言った一次的誹謗中傷を行った加害者に向く。
なぜそこに向かうのか、それは「正義」を免罪符にして無責任に叩くことが出来るからだ。

人は何かしら正義を持って生きている。そもそも正義を持つこと自体は自分の本質と向き合う上で必要である。でもそれを他者に振りかざすのはやっていけないことである。ましてや誹謗中傷なんて。

(いけない。というより相手にも正義がある。それが少なくとも一緒では無いということを理解していなければならない。自分だけの価値尺度で相手を決め付けるのはやられても不愉快なはずだ。
自分の考えを話す時は必ず相手の考え(正義)をまず確認してから、自分の言いたい本質を伝えていけば相互の理解が深まるだろう。)

一番恐ろしい部分は自分が「正しい」と思ってヒーローを気取ったかのように誹謗中傷を浴びせることである。
彼らは誹謗中傷をしようとしてしているわけではなく、被害者を「助ける」ためにしていると思っているのだ。

前の失言した人の例だと、失言によって傷つけられた被害者がいるのである。その被害者の代弁、気遣いや思いやりを盾にして失言者を叩く訳である。
二次的誹謗中傷には先導者が残念ながら存在し誹謗中傷の火がつき始める。それを見た人達が「同調」し始め援護射撃のごとく誹謗中傷は加速する。
誰かがやっていると自分の行いに対する責任が薄れてゆき一次的誹謗中傷と比べると尋常じゃないレベルで拡散していく。これによりたとえば著名な方や失態を犯した人は被害を受けていく訳であり、その人自身も覚悟している事とはいえ大変悲しい事である。

加害者意識の薄さ、むしろ自分が正しいと思ってやっているのが厄介で気付いていないので無意識のまま繰り返す。
もはやそれが傷付いていることすら分からずに。だって被害者が可哀想だから。みんなも言ってるから。いや、この人だって悪いじゃん?

では、その言葉の矢をそのまま自分に向けられますか?しかも矢はあなたの一本だけじゃありません。もう身体に刺さるところが無いくらいに刺されることを想定したことはありますか?たとえ自分がその覚悟があったとしてもその人はそうではないかもしれません。

最近では面白いことにこの盲目的に非難する二次的誹謗中傷者を非難するような達観を気取った「三次的誹謗中傷」も現れ始めておりもはや論点がズレて収拾が付かなくなっている。こうなるともはやいたちごっこであるので現在、私はこの問題ごと触れないように努めている。

それが一番無益に火種を増やす事も無いし一次→二次→三次の展開に正直うんざりしていた。それも鬱屈な情勢のせいなのだろうか、それとも私が自粛でSNSに触れる機会が多いからか。まあ、どっちもかな。


1.5 自分にできること

まずは一次(誰かが悪いことをする)→二次(無秩序に叩く)→三次(叩く人を叩く)という流れは誰がどう言おうが「一生」無くならん!!!それが人間の性だ。村八分を思い出せ。

自分がこのストレスを抜け出すにはこの構図からなるべく離れた位置にいること。そして人間はこういうものだと諦めること。
もし自分に誹謗中傷が降りかかったとしても一度冷静に俯瞰してあげることで感情的にならずに済む。

また相手の立場を一度考えてから発言をする。そうすることで少しは加害者になることは防げるだろう。

TwitterYouTubeなどで流れてくる批判的な意見などに関して本当に正しいのか物事の本質を見極めることが大事になるだろう。本来それを全員持ち合わせていれば誹謗中傷なんて起こらないんだけどね。てへぺろ

友達などの身近で誹謗中傷をしている人がいれば積極的に「この発言は良くない」と注意してくれた方がいいと私は思う。
また同じ過ちを駄目な事だと認識しないまま発言するかもしれないからだ。
その人は悪気なく言っている可能性もあるし、注意して壊れるような関係なら壊した方がいい(暴論)

また、二次的誹謗中傷でも述べたが相手を思いやる気持ちや善意がかえってその悪を根絶やそうという考えに発展しかねないのでその諸悪の根源に対してどのように向き合っていくかが今後問われていくだろう。

誹謗中傷をしない方法はまず心を健康な状態にし攻撃的にならないように管理する。
それが出来なかったとしても人を傷付けないようなストレス発散方法を持ち合わせる。

自分が誹謗中傷を浴びた時はまずは距離を置いて受け流したり許したり反応しなかったりする。それが耐えられなかった時は信頼出来る人に相談する。そしてその誹謗中傷の原因を突き止め無くすことも時として大事ではあるが、考え方を変えるのも1つの手段ではあるだろう。

極論、自分は強くなり相手に決して悪口を言わない。それだけでいいんだけど、それがものすごく難しい。
色んな人がいることを理解し許すこと。この心構え1つあるだけでも私は変わると思っている。


2.1 まとめ

私は誹謗中傷に滅法弱い人間なので有名人は本当に尊敬しています。でもその有名人も人間です。って誰かツイートしてたな。本当にそうです。遠い存在なので忘れがちになると思いますが沢山の誹謗中傷を受け止められる人もいればそうではない人間がいることを分かったと思います。これをきっかけに変わればいいですねー。

あと、いじりとかも全て取り締まったらそれは面白みが無くなりますしかえって窮屈ですね。メンタルの強い人がその役割を請け負って楽しんでやる分にはいいと思ってますね。大概の人間関係今はそういう感じで出来てますしね。

でも極力人を傷つけない円滑なコミュニケーションを交わすことが私の理想ですね。

ちょっと誹謗中傷について書きたくてムズムズしてしまったので書かせていただきました。最後まで読んでくださりありがとうございました。