怒らない人の評価はなぜ低いのか


僕は怒らない事が良いことだと思って生きてきた。


小学生の頃、短気である事がコンプレックスの1つで本気で直さないと友達が出来ないなと感じていた。実際、中学に入ってから徐々に怒る回数も少なくなっていった。

そして最終的には人前では滅多にマジギレする事が無くなっていた。僕はそれを成長だと思い込んでいた……。


僕は怒らない事を長所だと思っていた。事実、大学の頃、バイトの面接で君の長所は何?と聞かれた時は少し考えてから、どんなお客さんが来ても怒らない自信はありますとはっきり答えた。

そして3年半働いて色んなクセの強い客がいたが一度も声を荒げることはなかった。


僕はいつも冷静だった。怖いくらいに。怒るというスイッチがそもそも存在しなかったのかというくらいに。色んな事実を受け入れることができたし人の過ちを許せた…。

いや、どうでもよかっただけなのかもしれないけれど。そんな事をふと感じていたら僕は冷静なのではなくてただの冷たいだけの奴なのかもしれないなと思えてきた。


でもこの能力はどこかに活かせるかもしれない。僕は本気でそう思った。

怒らないということは物事を多角的に見れてそういった考えや発想があったのかと理解し受け入れる力があるからだ。


という面で建築に関われるということ且つ、あらゆる角度においての管理や様々なクセのある職人に対応していく施工管理が向いていると思った。


…それは2年前のお話。


そして、実際に現場をやってきた今…

僕は真逆の価値観を突きつけられてしまっていた。


この施工管理は怒れる人が向いてる職業だ。


僕の最初の違和感はちょっとでも都合が悪いことがあると声を荒げて怒る職人達の沸点の低さだ。


最初僕はこれだからタバコばっか吸ってる学歴の無い人達は…と内心馬鹿にしていた。


しかし怒らない人は次々とその声を荒げる人達の都合に呑まれていく。

発言を挟まないと意見を受け入れたと判断される。そう、言ったもの勝ちの世界なのだ。


そう、見えてきた景色は働く前では考えも出来なかった単純で理不尽な世界だった。


僕はそういった「理不尽」を受け入れてしまった。こういうものなんだなと。

かれこれ振り回されても不思議と一度受け入れると怒りも沸いてこなくなるものだ。


それでも僕は怒らないことが正しいと思っていた。


なんで人は怒るのだろう?理不尽よりもその根本が分からずにいた。もう僕には忘れてしまった感情である。受け入れる方が楽だというのに。割り切ってしまえばこれ以上傷付かずに済むからだ…。


でもなんだ、傷付かずに済むってもう自分が敗けたこと前提で物事が進んでないか…?僕が悪いのか…?いや、どう考えても理不尽を繰り出す相手の方が悪いだろう、何で「そちら」に合わせて俺は動いてんだ??


この違和感をもっと大事にしておけば良かった。なぜなら時間が経つにつれ何が普通なのか、何が正しいのか分からなくなる。

僕は疑問を解決せず、社会とはこういう理不尽の塊のようなものだ。こんな環境に飛び込んでしまった僕が悪いんだ。だから受け入れて行動する事が正しいんだと決めつけた。


でも受け入れているだけじゃ相手に言いまくられるだけなのだ。

相手の楽な都合の良い方向ばかりに転がれば物事が進まない。そう、管理者(監督)としてきちんとやるべき事やってはいけない事を伝え導かなければならない、たとえ衝突したとしても…。


その手段として「怒る」というのは僕はどうも間違ってると思ってた。それは三流のやる事だと思ってた。

僕が根本的に間違っていたのはそもそも「怒る」という概念そのものだったのだ。


僕が感じていた「怒る」は自分が不利な立場になるとそれを被りたくないため脅しの手段としてのものだった。いわゆるクレーマーってやつだ。


でも同じ「怒る」でも決定的に違うものがある。

それは「本気であること」そして「情があること」である。


かつてこのブログでも話したことがある、僕と同い年のよく話をする職人さんがいる。

彼は僕のその怒らない性格、そしてそれによる弊害を見抜いていた。

弊害とは多方からの言い分を断りきれず飲み込んでしまうため結果的に時間を要しどの要望も中途半端になってしまい叱責されたり苛立たせてしまうというものだった。


話は逸れたが今は気だるそうな彼も昔は怒っていた時期があったそうだ。

そんな彼曰く、実際どう怒るかは置いといて「怒る」という感情は本気で向き合っているからこそ生じるものだと唱えていた。


本気だからこそ今の満ち足りていない状況に対し「変えたい」というくすぶった思いが怒りとなって表れる。

その変えたい対象が対人関係に依るものだとすればその怒りは相手にぶつかる事になるだろう。


もちろん訴え方ややり方は選ばないといけないがむしろそこで自分の意見を抑えてしまい「怒れない」人の方が問題なのではと言ったのだ。


そう、僕は怒らないんじゃない…。怒れないんだ。

その原因は色々ある。嫌われる事を恐れているのもある。自分に自信がないから強く言えないのもある。

そして最大の要因は本気で変えたいと思っていないということ。すなわち、変えたいと思うトリガーでもある感情が沸き立つといった事が無いからなのである。


そう、自分を否定されてしまっているような理不尽には本来自分のプライドを傷つけられているのだから抗う必要があるわけだ。そのままでいい筈があるわけではない。


私の仕事はやってはいけない事を注意するのも1つの仕事だ。

もちろんテキトーに注意しても聞いてくれない。普通に注意してもペーペーの言う事など舐められて聞いてくれないものだ。


本当にダメな事。たとえば品質に関わる事、安全的に良くない事、繰り返し注意しても聞いてくれない時…どうしようもない時はもう「怒る」事が最善な時だってある。ある意味怒られて初めてそれがいけない事なんだって分かる人もいるくらいだ。

本当にダメな事を逆に中途半端に放置するのは優しさではなく「怠慢」なのである。

怒れない、あるいは怒らない人は言わば職務を怠慢しているという訳だ。

怒れるという事は自分に対しても相手に対しても本気であるという事だ。


タイトルの「怒らない人の評価はなぜ低いのか」の答えがそれである。


自分はこうしたい、こうすべきだというものに対して本気で遂行するためには相手を動かす必要がある。

その中でも「怒る」というのは1番表に出た自己表現だなと思っている。裸の声…というか建て前もあげつらえもない本音に満ちたその言葉に人は動かされるのではないか…。


こうしたいと思った事がもし現実でそうされていないとしたら何としてでも自分の思った通りにさせたいという「ありのままの気持ち」が大事であるという事だ。


それはわがままとも捉えられるかもしれない。でもこの仕事を見てきて上に立っている人は皆はっきりとした目的があり、それのためならばどんな手を使ってでも実行する情熱、本気の意志を持っている人達である。


最近の若者は「怒らない」人が増えたと50代の上司も話していた。

その原因はこうしたいという目的意識が低いのに加え、仕事に対して本気度が薄いということ。

そして本来怒っていいような事に関しても受け入れてしまう、あるいはその場では我慢してしまうといった自己表現が希薄になっているといった事か。怒れるということは自分を出せると置き換えられるからだ。


まあ、僕個人としていわゆる親世代がわれが!われが!といった性格の人が多い分その子ども世代の僕たちが反動でおとなしくなってしまったと推測している。


とはいえ、仕事が上手くいくのは自己表現が上手く出せる人だ。感情を素直に出せる人だ。

無駄に尖ったり言い訳せず上司のそういった良い部分は確実に吸収せねばならないと今はひしひしと感じる。


まとめ…


怒らない人よりも俺は怒っちゃう人が好きだけどな〜。

という部長の言葉を聞きブログにしようかなと思って綴りました。


そして僕が学生から社会人になって価値観が本気で180度変わった考えでもありました。まさに共感している人もいればそうでない人もいるかと思います。

そして僕のこの意見も全て正しいとは限らないわけです。あくまで今の職種ではそうという事です。


僕が向いてる向いてない以前に僕にとって1番ネックな自信を持つということ、自分を出すということをしっかりやっていかないと評価にも響くし、何よりこの仕事をやってる意味も無くなるので自分が今なにすべきかが見えてきた以上やる事ちゃんとやらんとなと思えてきました。

頑張ります!以上!!