死は果たして救済なのか!?について語ってみた件

生きているとふと死について考えてみたり、死にたくなることなんて誰にでもありますよね?
その度に死の世界はどのようなものなのかとか考えたりしたことはありますか?

一般的には死ぬと天国と地獄が存在し善行すると天国に、悪行を重ねると地獄に落ちるといったところでしょうか。その設定のガバガバぶりには小学校の僕でも苦笑させられるものでした。まあ、まずは天国と地獄が「ある」という前提で話を進めていきましょうか。ちなみに僕は無いと思っていますのでしばらく茶番にお付き合い下さい。

そもそもその善行、悪行の評価基準は何なのか、勧善懲悪の世界ならまだしも人は良いことを行えば悪いこともする複雑な生き物です。そしてその良い悪いも判断する人によっても異なる訳です。
その時点ででは一体誰がどのような基準で作っているのでしょうか。マニュアルとかあるのでしょうか。面白いですね。

そして死についての考えは宗教によって異なります。死後日本人だけが、あるいは仏教徒だけが天秤にかけられるのでしょうか。死後の世界があるなら←仏教↑キリスト教イスラム教など行き先が分かれてるのでしょうか、あるかもしれないというのが死の面白い部分ですよね。

死は死んでみないと分からないわけです。そして同時に死んでしまうと二度とこの世界には戻れないわけです。なので死んだ人から死後の話をOB訪問みたいに聞けることはないわけです。つまり、死はこの生きている私たちにとって永遠の未知なる存在なのである。

人々はとらえがたい未知を畏怖の対象とし怯えてきた…。昔は雷、地震など自然現象を理論として説明できないものを何かの仕業ということで無理やり答えを見出そうとしました。人は答えを見つけると安心する生き物です。今の私たちもそうでしょう。
当時の人間はそれらは人間には遠く及ばない神の仕業ということにし、そういった答えの分からないものに全て神や見えざる力が働いた結果として生きることに怯えている人達に導いたのが宗教です。不安につけこむことほど簡単なものはありません。

弱い人間にとっては宗教とは救済であり、信じることで自分は神に守られている心地となり自分が生きる意味を見いだせます。

僕は宗教を否定はしません。僕は宗教をもう少し軽く言うと「心の拠り所」と言ったニュアンスに近いと思います。その方法は人それぞれで拠り所に答えなんて自分次第で千差万別存在します。そしてたまたま昔から続く俗に言う宗教にしがみつく人が多いだけの話です。
その人によって答えは違うので派閥が分かれるのも頷ける話ですし、そもそも自分が拠り所であるなら何でも良いと思いますし、拠り所になってなければ宗教なんて入らなくて良いのです。

何が言いたいかといいますと、元々未知なるものの指針として生まれた宗教、現在は大概なものが科学力などで解決され、効力はやや薄れている印象ではございますが、「死」というものに対しては未だに未知なものの1つなのですよ。
つまり一定数はその死に対し恐怖を抱いているわけです。なぜなら「分からないから」。それに無理やり答えを導いてあげて不安の心から救ってあげているのが「宗教」なのです。
つまり答えなんてないわけですよ。しかもそれは生きるに於いて善行を積めば死後救われるという治安を上げるため無理やりこじつけた理論でいつの間にかそれを受け入れてしまっている社会があるということです。

前置きが長かったですね。僕はそういった未知なるものに勝手な理屈抜きで語りたい訳です。元より死んだら焼かれ骨になるわけです。
魂という概念があるなら天国地獄の話は成立しますが、もし魂という見えざるものもまたこの理論を納得させるためのでっち上げに過ぎないのです。生まれ変わりも同様です。もし「再構築」されたら面白いですけどね。しかしそれも魂理論ありきなので少し無理があります。

僕は2つ考えがあってまずは永遠にこの世界に残り続けるというものです。
これは正直ほぼ無いと思っています。どういうことかと言いますと、夢をほとんどの人は見たことあると思いますが、眠りについて現実から夢の間の切り替わる瞬間を明確に分かる人はいないと思います。その曖昧な部分に永遠に浸るというのがこの考えです。つまり現実と夢の漸近線みたいなものをさまよい続けるということです。無意識的な意識が永遠に残るような感覚ですね。これは高校の時の同期の請け売りです。最初は理解出来ませんでしたが可能性としてはあると思ったのでここに入れさせていただきました。

そしてこれが僕の実質の考えで「無」ですね、要するに前説が無意識ながら意識はあったのですがそれすらも消失するということです。つまり考えることそのものも消えうるわけです。それがどういうことなのかは僕には分かりません。なぜなら死んだことがないから。

1つだけ言えるとすればそれが一番の恐怖では無いでしょうか。
そこには救いのへったくれはないわけですから。何もないんですよ。それは死んでからずっとそうです。宇宙が無くなるまで、いや無くなった後のこの先何十億、いや無限でしょう…まあその時の流れすら感じないわけですから良いのかもしれませんが。これが最悪でありまた最善なのかなと思いますね。

死は救済なのかという問いに対しては僕に関しては救済だと思っています。なぜなら生きるとは苦行だと思っており、それを根本的に解決する方法は死ぬこと以外に存在しませんから。しかし、先ほど述べたように一度死ぬと二度と戻れない訳です。
苦行とは言いましたがそこにはしっかりとした感情から伴った刺激があるわけです。死ぬとその感情や刺激すら失われるわけですから、この先の無を前にしたらたった数十年のこの痛みすら恋しいものに感じてしまいます。

死は救済であるには表の意味として生きることへの逃避もあります。
しかしその絶対不可避な選択肢があるからこそ、人はせっかく与えられた生をありがたく使わせていただこうと思えるのです。もちろんその生を放棄して救済に先走ることも1つの選択肢です。

しかし、宇宙規模に生成される時の流れから人一人の生を見た時にまばたきあるかないかくらいの儚い時間であるということを悟ります。圧倒的に「死」の時間の方がこれからは多く、したくなくてもどうせ死ぬわけですし、全ての悩みは死んだら全て解決されるわけです。何という万能薬なんだ…
病気になったり生きるのがとても嫌になったら死んだら解決するんですよ、それはそれは救済なわけです。

だから生きてるうちに解決しようと思う方が不自然なのです。全てが未解決で良いのです。
生きる意味なんて無くてもいい、所詮ちっぽけだし1億年に対する百年なんて一瞬ですから。

つまり生きてるということそのものが既に恵まれているわけですよ。何で生きてきたかという問いについては死んだら出来ないことをやるためですよ。

感情、五感の刺激、それがプラスであれマイナスであれ無よりは得るものは多いです。
強いて言うならこの生きるという苦行をどれだけ悦びに変えられるかでこの生について少しは楽観的に生きられるんじゃないでしょうか。飢えるのも、苦しいのも、苛立つのも、痛いのも生きてるから味わえるんですよ、なんと贅沢なことだろうか。

死ぬという確定した事項が生の有限性を際立たせている、つまり死=救済とは「死んでからの救済」はもちろん「死ぬまでの心持ちとしての救済」という意味も含まれているのではないかと僕は考えています。

そもそも分からないことに何か答えを見出すことはナンセンスではありますが、かといって死を見て見ぬふりするのもまた違っているかと思います。一度きちんと自分なりの指針を見つけてこの与えられた生をどう全うするかの手段として一度読んでいるあなたも考えてみてはいかがでしょうか。