自分の半生 ~社会人編①-1

自分の半生と言いながら社会人になってからは人生の後半戦だと思っていますはいますが後半の半生ということを頭にイメージさせつつ自分の半生、社会人編を読んでいただけたらと思います。
ここでは2020年3月末~6月末のことを書きます。


第一章 1人

22歳の3月下旬に自身として初めての1人暮らしを始めました。
生活力というものが皆無で新しいことを始めるのにものすごいエネルギーのかかるタイプの人なので想定通り最初はものすごい悪戦苦闘しました。

具体的には水道代電気代の契約や料理が第一関門でした。元々電話がものすごく苦手なので一回一回深呼吸をしてから電話をかけたりしていましたが格安スマホの電話番号じゃ繋がらないことも多く途方に終わることもしばしばありました。

そうすると後回しにしてしまう性格もあり色んな書類などが床の上を埋めてどこからとっついて良いか分からなくなり半ばパニックになってしまい、4月上旬までは錯乱していました。親からは心配されていました。

特にWi-Fiは手順がややこしく完了するまで3日かかりました。こんな人間が1人暮らし出来るのか…?というところに救いの手が差し伸べられました。

後でまた説明するのですが4月8日からは緊急事態宣言により会社も5月末あたりまで休みとなり、その期間でなんとか1人暮らしをかろうじてやっていく術を掴みました。ほんとありがたい限りでした。

第二章 入社

4月1日、社会人第一歩を踏み出しました。最初は会社の概要や社会人たるもの学生気分では駄目だという檄を飛ばしながら鞭打たれました。

企業理念をひたすら発声したり、質問や言われたことに対し必ず手を挙げてはいっ!!と叫ばないといけない、これが全員じゃなかったら叱咤し出来るまでやるとなかなか緊張の走る研修でした。

また野心的でグイグイ積極的であることを求められ少し違うなと思いつつ、これが自分の甘さなのかと考えながら修行だと思い従っていました。
叱咤されるたびに見つめ直す部分も多くその意識の高さに少し打ちひしがれていました。

こ ん な 叱 咤 な ど 序 の 口 に も 満 た な い こ と を 知 る 由 も な く

忘れがちですがこの頃はコロナの影響で色んな店舗を始め学校や会社が自粛ムードにあった中で、会社によっては延期になったりテレワークになったりしていた所もありました。

弊社では長机の短辺の2つに椅子をもうけ、2人座っていくというイレギュラーな使い方をしてソーシャルディスタンスを演出し、その状態のまま昼食を取っていました。常に換気として窓が開きっぱなしだったのでみんな寒そうにしていたことを思い出します。

どうでもいい話ですが寒いなんて感情を消すことで簡単に寒くなくなります。これはあんまりオススメしません。生きている心地すら失うので。
また暗示でも寒くなくなります。寒い中でも暑いと思えれば寒くなくなります。簡単ですね。

それと身体の怠慢です。普段からストーブやカイロや厚着に頼ってしまうと身体そのものから発熱することを怠ります。だから着込んでも着込んでも寒いのです。芯が冷めているからです。文明の利器による甘えですね。その甘えを一度無くしあえて寒い状況に身を置いて身体そのものが能動的に発熱させるシステムを作りましょう。

その応用を利かせれば暑い、寒い、痛いという刺激の類に関しては全部克服出来ます。

はい、話を戻します。まあ、戻らないんですが昼食は弁当方式でみな同じご飯だったんですが僕はアレルギーだったので近くのコンビニで会社の経費でお昼ご飯を食べてました。最初は遠慮してたのですが1000円使ってええんやで!と人事の方から言われて以来は沢山買って食べてました。

そうするとみんな同じ飯を食べてる中この異様な食事をしている人間が1人いるものですから注目の的になり、女の子男の子と話すキッカケにもなりました。アレルギーで良かった瞬間でした。

結局研修は5日間だけのそれこそ会社概要、会社の歴史、会社の給与形態のシステム、役員などの偉い人達からのお言葉だったり、グループ会社について、保険について、コンプラやPCのサイバー攻撃防止に関してなどの初歩中の初歩みたいなことで業務に関わることはほとんど行いませんでした。

あとはひたすら起立礼着席の練習とか企業理念の復唱とか叱咤叱咤で知ったこっちゃないみたいな内容でした。

これから本格的な技術的な研修に入る…というところで悲しくも緊急事態宣言によりゴールデンウイークまで休みとなりました。
嬉しかった半分、このまま研修無しでこれからどうなるんだろうという不安を半分抱えたまま休みとなってしまいます。

第三章 独り

4月某日からの緊急事態宣言により人と会うことや出歩くことすら自粛され、ストレスを発散させるカラオケや飲みなどが一切出来なくなってしまったのです。

さらに1人暮らし始めたばかりと相まって本当の孤独というものを初めて知ったような気がします。
今までは何やかんや家に誰かいたり誰かしらと出会っていたりしたのに途端に独りになってしまったものですから、案外自分は独りが苦手で誰かと会ってないと心が苦しくなるんだなと感じました。

理由としては1人だと自分のことについて考え耽ってしまう。つまり必要以上に自省をしてしまい勝手にストレスを増幅させているのです。
もう一つはそれらを普段直接会った人に対してぶつけて解消していました。しかし、Twitterでは一方通行ですしLINEはそんな深い話にまで発展せずどちらにせよもどかしい気持ちになって終わるのです。

「会う」ということがとても大きな意味を持っていたことが失って気付いたものでした。
まあ、大概当たり前にあるものは当たり前じゃなくなった時に認識するものです。

ゴールデンウイークまでは週1で資格の学校に通い(ディスタンスや換気などはしていたが、当時の情勢上結構通うこと自体はグレーだった)
他は買い物、さすがに身体は動かさないと身体はもちろん心も鈍ると思ったのでジョグもちょくちょくやってました。

後は会社から出た課題を少しやりながら先ほども話した1人暮らしに手こずっていた手続きや書類などを一つずつこなしたり、まさしくブログ書いたり絵を描くなど趣味にも手を出していました。
自分の「時間」という概念で言えば生きていた中で一番持て余していて自由でした。息苦しかったですが。

今思えばもう少し充実したものにしておけばと思ったのですが、バイトも出来ないのでお金も無く、将来が不安真っ暗状態では確かに何かに没頭する余裕を作るのに厳しいものがありました。

この頃は本当に息苦しかったですね。こんな自粛状態でパチンコ屋に行列で並んでいるのがメディアに映り炎上していたじゃないですか。
梅田で資格の勉強していた時にパチンコ屋で並んでいる人たちに向かってメガホンで説教しているデモ(?)が聞こえてきてとてもうるさかったんですよね。
そして内容もひどくて子供も観ているんですよ、恥ずかしくないんですか?本当に日本人ですか?とブーメラン発言に加え、差別や我々がさも正義かのようにふりかざすその様は甚だ不愉快で滑稽でした。
この辺の怒りについて詳しくはブログの~誹謗中傷はなぜ無くならないのか~を是非見て下さい。

まあ、この緊急事態宣言で良いことも多少はあってもう一回大学生の頃みたいな落ち着いて振り返る時間が出来たこと、社会人一年目だからこそ得られた恩恵で環境が違う皆さんには申し訳ないですが運が良かったなと思います。

社会人二年目以降なら現場は普通に動いておりましたので出勤していた事でしょう。
学生は学生で授業が出来なかったりリモートによる授業で図書館も空いておらず満足した勉強環境がなかったと思います。また部活やサークルは新入生を呼び込む一番大切な時期なのに対し活動の禁止で学費だけ払って何も出来ない状態だったと思います。
彼女も学生ですのでそういった不満が溜まっていました。
彼女とももちろん外では会いづらい状況でしたので彼女の実家で粛々と会っていました。

あ、良いことですよね?もう一つはオンラインでの会合を知ったということですね。私の場合はzoomを通じて色んな人と会話しました。

zoomを知ったのは高校の友人が大学でzoomを使って授業しており彼がそのzoomの有料会員で彼を中心にして同期でzoomしたことから始まります。
大学の友人やサークル活動や高校陸上部の飲み会として人数も2~16人まで多種多様な形態でやりました。
こういったリモートならではのメリットもあり一つは外出の準備もいらず時間も場所も制限されないので参加しやすいという点です。
遠く離れた人や終電などに囚われることないのでいつもは会えないメンバーと会えるという点も大きいです。
もう一つは途中で参加したり抜けれたりと参加するハードルも下がるので同じく色んなメンバーに会えるということです。
対面より気を抜くこともできるので初対面だったりまだ気心知れない人と会うには案外良いのかもしれません。

ただデメリットもあって大人数は少し喋る人が限定されるのでつらいですね。
対面だと例えば8人いたとしたら大概2つのテーブルで4人4人に2つの島に分かれて会話が盛り上がるんですよね。
盛り上がるのは4人がピークだと勝手に思っています。それ以上の人数になるとどうしても黙ってる傍観者側も多くなっていくのでそういう人達は不完全燃焼で終わっちゃうんです。
回すのに精一杯で結局深い話はしづらいし対面よりどうしても浅い感じになるんですよね。
良い言い方をすれば対面への踏み台、前座で「次は直接会おうね~」が出てしまう対面ありきのスタイルとしては絶妙だと思います。

つまり、孤独への逃避としては効果的だったもののほんの一時的なものに過ぎなかったのです。

ゴールデンウイークも出かけることなく緊急事態宣言は解除されたものの会社は週1の研修にとどまり5月末までたった8回の研修で終わり、なんと6月からは配属され、配属先での新たな環境で生きることになるのです。

第四章 現場

会社の同期との研修はあったもののあんまり仲良くはなれませんでした。

こういうとあれですが今まで生きる環境が違ったからかしっくりくる人がいませんでした。
なんというか、薄っぺらいというか…高校の頃人もまばらな道や広場でスケボーやってたよなーって盛り上がってたり、クラブや女の話でタバコを吸いながら盛り上がってたりインスタなど見てると別世界にいる人達だなと思ってました。
でも段々と「自分」こそが特殊環境にいたのではないのかと価値観が揺らぎ始めていたのです。

なぜ気付かなかったのかというと同じ環境の人達とずっと一緒にいて勉強、知識こそ全てというような価値観が普通だと思ったからです。
それこそ大学で色んな価値観の人との出会いで衝撃を受けたものの、それらは所詮「面世界」での散らばりで根っこのようなものは大きくは同じだったのです。
今僕が見ている衝撃は完全に立体世界、根っこそのものが違った衝撃でした。
それが第三の衝撃と自分では名付けています。
(第一は中学のインテリ世界、第二は大学の多種多様世界)
まあ、第四の衝撃もあるのですがまた後述します。

5月末からいきなり配属先が決まり僕は兵庫県の甲子園の近くの現場になりました。下宿先からは微妙に遠く現場まで1時間15分くらいはかかります。

配属先が決まった直後に荷物を持って行くため初めて現場に向かい挨拶をし6月1日から本格的に仕事が始まりました。

すごい申し遅れましたが私はとある建設会社で働いており、それを施工管理していくという仕事をしております。
は?施工管理ってなんやねん?って思った方はこのブログを読んだら少し分かります。

ざっと言うと設計通りに建物を作り上げるのを目的に作り上げていく職人さんを指示し様々な管理をしていくという仕事です。だから仕事場はその建物を作っている現場ということなのです。

現場の中に同僚(以下所員)達が使用する事務所があり、その中にはトップ(所長)と二番目(次席)と残りは先輩が2人、派遣社員である年長の方と女性の事務員さんが1人、たまに設備設計士の方が来るといったところで、現場には当時では60人ほどの職人さんがいました。

最初の挨拶に行く時、僕は何をすればいいのか分からずやっていけるのか不安になっていました。更に例年と違い現場で何をするかといった概要すら教えてもらえず全くの白紙状態で来てしまったのでもはや恐怖でした。

訪ねてみたら本当に「工事現場」で作業着を着てヘルメットを被り汗だくになって仕事をしている所員を見かけ思ったより泥臭い仕事だなと思ったのが第一印象です。

明るそうな次席に研修では何も学べてないですが大丈夫でしょうか?と聞いたところ
「大丈夫や!研修で学んだことも、今まで学んできたこともここでは全く通用しないと言っていい、0からここで学ぶつもりで頑張れ!」
と希望のような絶望をぶつけられました。

やるしかないんだなと思った僕は覚悟を決め仕事をやっていこうと決めました。

8時に全体朝礼があり7時50分に所員だけの朝礼をするのでおよそ7時30分には着かなければなりません。6時30分の電車なので6時15分に家を出ます。

昼ごはんはお弁当が支給されるものの僕はアレルギーなので自分の分は断って代わりにコンビニで買ったおにぎり2つを食べていました。
その分栄養素的に朝と夜にしっかり食べる必要があったので朝は家でしっかり食べるように心がけていましたので5時過ぎには起きていました。

この頃は5時の空は明るかったので意外と起きるのに苦はありませんでした。

一番苦しかったのは工事の途中に入ってしまったため既存のグループに溶け込む必要があったということです。
産声をあげて以来今まで新しい環境に慣れるまで必要以上の時間がかかってしまう人間で会社の同期や1人暮らしに関しても例外ではありませんでした。
一度馴染んでしまえば割と自分の立ち位置も定まりどうあればいいのか対応できるタイプなのでそれまでの辛抱かなと思ったのですが甘くはありませんでした。

一つはもちろん、僕の性格が馴染めるタイプではないということです。また所員もコミュニケーション能力も対ワイワイ系に特化しており賑やかな人には声をかけるがおとなしい人に対してはあまり声をかけないタイプでした。
つまり馴染みたいならお前から馴染んでいけよ…というメッセージだったのかもしれません。

また、新しいことを覚えるエネルギーを必要以上に使ってしまうことです。最初は覚えることは大してなかったものの、一つ一つに全集中してしまうので脳の疲弊がかなりありました。疲弊すると声が小さくなったり、ミスをしたり、忘れたり、同じことをミスしたりして叱られる、また疲れていくという悪循環でひたすら叱られていました。当時は17時定時で上がれたのですが21時には寝ないとしんどいぐらいどっと疲れが溜まっていました。

そしてこれは物心ついてから永遠のテーマで不器用ということです。最初は安全について担当することが多くありました。
具体的には職人さんの入退勤を印鑑をつけて管理したり、熱中症予防のため特殊な温度計を用いて温度を測ったり、飴を用意したり、安全のポスターや看板を作成し貼ったりするといったものでした。
特にその看板はテンプレこそある(自分で作成するものもある)が自分で1から印刷し、角を切り、ラミネートし、パンチして紐に括り付けるという単純作業…。
それが出来ないんですよね…特にラミネートでは傾けたりくるくるになって何度壊しかけたか…出来るのはガタガタの看板でスピードも遅いし質も低いという最低の出来でした。
カッターでまっすぐ切れない男ですからね、この仕事は模型造るのが不器用だから諦めた学生時代、社会人では手先をあまり使わない仕事に就こうと思ってた矢先めちゃくちゃカッターナイフ使うという矛盾にぶつかりました。
まあ、疲弊によるものもありますがそういった「事務作業」が出来ないんですよね。

あと電話対応も苦手で全然言葉が浮かばないんですよね、イメージ先行型と言いますか…。今でこそ電話をかけること、かけられること自体に恐怖は無くなったのですが相変わらず気の利いた言葉は話せずどもったり支離滅裂なことを言う事が多く周りを困らせています。あとはコピーのやり方とか、段取りが悪かったり準備にめちゃくちゃ時間かかったり、ほんと色々です。

そういったほんの些細な序の口程度のことでしでかしをする度に社会人向いてないなーと落胆していました。
職人さんとも所員とも全然コミュニケーション取れない…元々ない自尊心が底を尽きていました。

彼女はと言うと5月末から色々ありまして…まあここでは言いませんが一言で言うと僕の悩みを打ち明けてもいい余裕が彼女にはありませんでした。
むしろ彼女の問題はそんな僕の問題よりも大きく、まさに正念場でした。
ここで助けてやらなかったら彼氏をやる資格がない…!!そう思ったのでしんどい思いを隠して彼女を支えるのに懸命に尽くしました。

ただ彼女のためだと言って働きかけた事がだんだん失った自尊心を少しでも取り返すためのエゴなんじゃないかと思い始めてきたのです。その愉悦というエサのために動いていて本当に彼女のためなのかということです。

思い返せば必要以上にそのエサを得ようと口数が多くなっていたような気がします。

僕は元々論理的理屈屋の人間なのでもし自分が同じ状況になったとして僕ならこうするけどなという解決法が少しでも参考になればいいかなといういわば善意だと思い込み話していました。

しかし、彼女が求めているのは果たして本当に解決法なのかという根本的な問題に差しかかった時、いや、違うなと思い始めたのです。
とある事をきっかけに拠り所は「気の利いた言葉」ではなく「味方という存在」なのではと

つらいことがあった時、こうしたらつらくなくなるよと言うよりそっとつらかったよね、頑張ったよと声をかけるということの方が良いということです。
正直、昔の自分も後者の考えを認知していました。しかし当時の僕もまた余裕が無くなっていたのでしょう。余裕が無くなれば無くなるほど僕は「合理的」な発想に手を出してしまうのです。近道が全て最短でいけるということは限らないのに…

気付かされた僕は深く反省し、そこからは本当に彼女と向き合えたような気がします。仕事と彼女でものすごく迷って疲れてしんどかったです。
ただその時があったからこそ彼女とはより深い絆が生まれたと思います。

また、仕事が始まってからの会社の研修ではお互い仕事に関する共通の話題項もあったので少しずつ仲良くなっていき、男女共に打ち解けることが出来ました。
まあ大体仲良くなったのはどちらかというとおとなしいメンツではありますが賢くておかしいキャラに落ち着きました。
今までどちらかというとアホキャラだったのでそこもまた今までと違った部分ですね。

そうやって何とか打ちのめされそうな心を回復させながら何とかやっていました。

まあ、そうやってジリ貧の考えのままではいつか終わりが来ます。第五章ではそこから書きたいのですが、あまりに長くなりましたので続きは後半に綴っていこうかなと思います。