自分の半生 ~高校編②

高校2年生、思い返してみるとこの年が一番辛かったかのように思えます。

高2からは完全に文系と理系で分かれ5クラス編成で1組から3組が理系で1→2→3の順番で賢く4組、5組が文系で5組が賢い方でした。

僕はそもそも文系理系を決めていなかったのですが理系は文転もしやすいですし、なにしろ記憶力が良くなく社会を2つやるのはさすがにしんどいこともあり理系にしました。理科の科目は生物の先生が嫌いだったので化学と物理にしました。実際高2から先生が変わり嫌いな先生じゃなくなったため生物の方がよかったのでは?と思っていましたが大学で建築や陸上をやるにおいては物理を多く用いたので結果的に良かったと言えるでしょう。

結果的に消去法で理系を選択したわけですが当然一番アホな3組となりました。

第一章 ロンドン修学旅行

大きく変わったのは高校から編入してきた人が新しく入ってきたことでした。高1ではその編入生達だけのクラスがありそこで猛烈なスピード(たとえば数学ならIA IIBを1年間でやるわけですから)で僕らの中学からの白陵勢に追いつき高2で初めて僕らと混ざり約半数が落ちこぼれるため3組か4組に入ってきました。

そこで僕はその新しく入ってきた女の子に一目惚れをしたのです。顔は今まで好きになった方程式に沿ったつり目で鼻が高い人でした。
女の子って感じの子でその子からはめちゃくちゃいい匂いがして歩くだけでも包まれました。その人ともう1人その女の子と出席番号が近く仲良しな女の子もいて、その子はタイプではないが可愛い顔をして少し抜けているところがありそこも可愛らしいところではありましたが、完全に僕は最初の女の子を狙いうちしていました。

その頃から入れ違いのようにエビ中への熱が冷めてゆき、なるほど誰か好きな人がいるとアイドル熱が冷めて振られたりするとアイドルに夢中になってゆくのかと自分の習性を知った瞬間でもありました。それと打って変わって再びB'zに興味を持ち始め、クラスのB'z好きの女子にアルバムを借りたりしていました。それまで家族共用のウォークマンでしたがキャパも限界になり家族で聴く曲も違うことから1人一台買ってくれることになりました。

彼女とは5月あたりで席が隣になり、国語の授業で教科書忘れたふりをして机を一緒になり見せてもらいました。ただあまりに緊張しすぎて汗をかき、先生におい大丈夫か!?顔赤なってるぞ!?隣が気になってるんじゃないか(笑)とちょっかい出されるも…い、い、いや…ちがいますし…としどろもどろになっていましたがもう遅かったです。

僕はこの頃になると同性とは上手く会話ができるようになっていましたが、話の内容が漫画(主にONE PIECE)か自虐か下ネタで当時僕は女性に下ネタはいけないと思っていた(というよりそういうタイプの女子がみな上品を装っていたのでいなかった)ので話す内容がなく、かといって仲良くなりたいので、あの…今日は天気予報で雨降るって言ってたよ…とかめざましうらないで俺1位やったとかほんまにしょーもないことしか言うてなかったです。また、部活の試合で抜けていた授業の分を彼女に見せてもらえる?と聞いたら、また出来たら返してねと貸していただくことに成功したのです。

この頃の僕はアホだったのでよしっ!第一段階「話す」をクリアしたぞ!そして自分の所有物であるノートを預けてくれた。これはきっと僕のことを信用してるからに違いない、相手は僕のことをきっと思ってくれている!後は告白だ!と1人舞い上がっていました。

そうこじらせたのは単純に女子と関わる機会が圧倒的に少なかったからでしょう。なので女子と話せる男子を見るだけで嫉妬したりいじっていたりしました。が、いざ自分は全く話すことができずむしろ中3の頃よりも女子と話す頻度も少なくなって免疫も落ちていました。

修学旅行…これが6月にありました。僕らの代は遠足というものが6年間存在せず年に1回の臨海学校や勉強合宿みたいになることが多く中2は完全にそうでした。中3は修学旅行として東北と函館に行き、さすがは私立、良いホテルに泊まることができました。高校は高1と高3でイベントはなく(高3で東大志望のみ東大見学を兼ねた旅行がある)事実上高2のこの修学旅行だけがイベントでした。

場所はなんとロンドン、5泊7日で経費が20万を越すそれはそれは莫大な費用のかかる旅行でした。
僕は最初行くのを躊躇ってました。単純にアレルギーがあり、洋食がほぼ100%食べれないし現地で何かあっても対応できないからです。親が始め断っていたものの先生側は全員行かせたいという旨を語り、責任と面倒を見ることを条件に行くことになりました。

僕は行かないものだと思ったので行くと決まってからチャンスだと思い、ここで告白しようと決めました。
まずは2ショットを撮る、そしてそれができたら告白し、できなかったらそもそもここでつまづいてたら告白も失敗するだろうと言うことで諦めるといったものでした。逆に2ショットに成功したら告白も上手くいくと思ってました。
次はセリフです。その子は当時流行りのOne Directionが好きだったのでロンドンという要素もあったのでそれを交えて、僕はここまで君の要素を知ってるんだぞということをアピールしようという作戦です。ここまで計画を立てとけば大丈夫だろと思い、ドキドキしていました。

そして、5泊7日分のレトルトを背負い、ロンドンへ旅立ちました。ロンドンでは様々なことがありました。
良かったこととしてはオクスフォード大学ケンブリッジ大学を見れたこと、大英博物館にも行けたことです。イギリスはどれも規模がものすごく大きくまた歴史ある古い街並みも素敵でした。また地元の人はフレンドリーで挨拶をしたらほぼ100%で返してくれました。また日本人のバスガイドさんがクラスに1人付いており僕は30代の女性とアレルギーのこともあり付きっきりでいられたことはある意味良かったです。

悪かったこととしてはまずアレルギーの対応がほとんどなされておらず僕の分の食べないはずの料理も出されていてレトルト買った分もあり人より余計にお金を出してる結果となりました。また、実際にイギリス料理はおいしくないらしく(パンはうまいらしい)レトルトのごはんの僕に日本食いいな~とたかりに来られたのです。
僕はむしろ君たちの方が郷土料理を食べれて羨ましいし、レトルトも腹を完全に満たすほどの量もないのに、僕のごはんをもらおうとするのは少しわきまえて欲しかったです。また、マズいからと残してる人もいてそれに関しては少しイラっとしました。

話を恋愛に戻します。来て1日目、(飛行機からも数えると2日目)早速自由行動があり、2ショットのチャンスをうかがっていました。事前に1人の友人にシャッター役としての役目を伝えていたので、少し女グループでかたまってたところから散り散りになったところで声をかけました。するとOKと言ってくれたので僕は歓喜しました。
なぜなら先ほど述べたようにここがOKなら告白もOKだと思ったからです。
僕はこのOKを引き伸ばしにして薄めてはいけないと思い、少し早いなと思ってましたがその日中に言おうと決意しました。

言えるチャンスは多いようで少なく、バスを降りて入り口のロビー時点で女子は左、男は右の部屋に行きます。また食事処はそのロビー近く左の女子側にあります。つまりチャンスはバスを降り部屋に分かれるまでの間か食事の前後の3つしかありせんでした。無論スマホなどの連絡手段もないため、集まるという知らせも直接言う必要がありました。しかし、それをやるくらいならいきなり言った方が良いと思い、バスを降りてからすぐで言おうと帰り道のバスの中で決め、バスが走っているその間は心臓バクバクでした。

いざバスを降り、彼女の動きを見つつあの、ちょっと話あるんやけどいい?と引き止めることに成功しました。みんなが帰って行って2人きりになり、ここでは言えないようなクサい言葉で告白しました。すると彼女は少しあたりを見渡し、ちょっとしおり貰っていいかなとメールアドレスを書き始めました。しかし、僕はスマホを持ってないので、え、俺メールとかしてないんやけど…と遮ったらいやいや、でも書くから…はい!と書き切った後じゃーまたねと去っていきました。

みなさんはこれを見てどう思うだろうか。果たしてどっちなのかということを。
当時の僕はメールを教えてくれる=これからやり取りしましょうね=告白成功!!だと捉えたのです。僕は有頂天になりとりあえず告白するわ!と言った人には全員に成功報告をしました。そしてせっかくだしこのロンドンでプレゼントを買わないと!と思いました。

翌日思ったより彼女は普通な感じで僕は逆に浮き足立ってました。みんな知らんけど僕の彼女になったんだよな~とうはうはな気分でした。修学旅行みたいな所でカップルっぽく出来ないのは仕方なくこの学校は異性の交遊には厳しかったため彼女が僕に対してしゃべりかけないということは特段違和感というものはなかったのです。
しかし、何かしらしゃべりかけなければ!?と思ったのですが何もしゃべれないまま2日が過ぎました。
その次の日がグループ行動の日でクラスごとではなく、行きたい場所によってグループが分かれるものでした。そこでの自由行動があると知っていたのでそこで彼女が好きだと言っていた(盗み聞きした)テディベアを買おうとしました。

その日の朝、ホテルで食事をした後、なんと彼女から来て!と手を招く合図があり手紙を渡されました。内容は今日の夕方ロビーのベンチで待っててと書いてあり、きっと前はいきなりで恥ずかしくて言えなかったんだろう、改めて告白が待ってるんだろな~という妄想をしていました。


そして自由行動が終わり彼女へのプレゼントも買い、ロビーで待っていたら少し遅れて彼女はやって来ました。しかしその顔は少し暗くそれを見て
先に一抹の不安を感じました。そしてそれは的中し、あの🐯くんにとっては良いことじゃないと思うけど…と始まり、実は私受験勉強頑張らなくちゃいけないから今はそういうの…はあまりやりたくないというか…興味なくて…だからこの話はこれでおしまいねと言われ、一瞬頭が混乱しました。ってことは俺は振られたの!?でもプレゼントは渡さないといけないと思い、これは俺の気持ちです、なるほど分かりました。勉強頑張らないとなーと言ってとぼとぼ歩いて帰りました。

その日はシャワーでLOVE PHANTOMを歌いながらやり過ごしていました。部屋は2人部屋で僕は二人ペアを組むというのが元来苦手で今回も一番最後の余り者同士になったのですが、そいつが案外いいやつで慰めてくれました。

その日の夜、いつも通り就寝前の点呼が終わった後1人僕は担任に呼び出されました。担任は柔道の先生で目がクリクリとしつつも歌舞伎役者並みの睨みで100人いれば100人がその威圧でゾッとするような怖い人でその先生に呼び出されたので叱られるのかなと思っていました。

すると両肩をぽっと叩き、ええか、これは先生じゃなくて1人の男としてアドバイスしとく…お前は周りが見えてないんかもしれんけどな、女子は周りを見て色々と判断してるんや…お前がその、何や、告白してる時に実は俺もおったし他の先生もみんなおったしバスガイドさんもおったんや、そこで彼女がお前を振ってみ?印象が悪いやろ?せやから振ることはせず当たり障りのない大人な対応をしたんや、まあ過ぎてしまったことはしょうがない、これから気を付けるんやで…とまた片手で肩を叩き去っていきました。

えっ?ポカーンと僕はしていました。そう、今ここでようやく全ての真相が知らされたと同時にこれらの告白は実は全員に見られていたということ、そして彼女が僕の告白の後辺りを見渡したのはそういうことだったのかと今日の返答の納得とそれを上回る強烈な恥ずかしさが込み上げてきました。その恥ずかしさは今思い出しても顔が真っ赤になるくらい恥ずかしいものでした。
なぜなら告白の内容がヤバいから…。そしてそれを聞かれていますから…。

しかし、この時の僕はまだ馬鹿で受験勉強が忙しいから振られたという事実は本当だと思っており裏を返せばそれが終わったら付き合えるのでは?と思っていました。
それからは会話することなくあっという間にロンドンが終わったように感じます。時差以上のずっしりとした重さがのしかかりしばらくは何に対してのモチベーションがあがりませんでしたが、唯一B'zがそれを癒やしてくれていました。

第二章 京都工芸繊維大学

漫画は相変わらず書き続け、勉強の身もあまり入ってませんでした。漫画を描くうちに画力も上がってきて、漫画家はそりゃ断られるけど美術系の大学なら許してくれるのではないかと考え始めました…が親の回答はまたも同じで根っこから否定されました。

しかし、塾の面談で母親がこんな息子は馬鹿なこと言ってるんですよ、とけなしている時にその先生はいいや、立派なことじゃないですか!やっとやりたいことを見つけたんやね~絵に関する大学か~とかなり肯定的に受け入れてくれ、それなら美術系の大学もそうやけど建築をやるってのはどうかな?建築も絵を描くからねーとここで初めて選択として建築が出てきたのです。続けて先生はおっ?ちょっと待ってよ?確か兵庫か大阪か東京って言ってたよね?京都なんだけど君にピッタリの大学があるよ?京都工芸繊維大学と言ってね、僕ら界隈では有名なのよ、でそのデザインと建築のテストの内容が英語と数学とあと絵なのよ!!しかも理科もない!と僕的には完全に見てもないのに一目惚れし、あ、この大学だ!という確実な実感がありました。この他にも候補を挙げてくれたのですがどれも目に入らずもう心の中では完全に決まっていました。

初神戸か大阪か東京と言っていたのは2つは実家から通えるからです。実はこの頃から大学は1人暮らしをしたい、というか母親から抜け出したいと思っていましたが僕の不器用さを母親は知っていたので面談などでは母親が固い意志でその2府県を指定していました。ちなみに高1の時は母親はあんたは神戸大学に行きなさいと指名されていましたが僕は特別理由はなかったですが反対していました。また、当時父親は東京にいたので父親と住むことを条件に東京圏も視野に入れられてました。
しかし、僕の中では京都にはアテがあり、それこそが母方の祖母の家でした。そこからだと普通に通えること、そして母親から抜け出せるし1人暮らしもしなくていい、そして受験では苦手な理科も受けなくていいといいことづくめでした。

問題は偏差値で神戸大学建築学部よりかは少し下でした。しかしそれでも全く歯が立たないくらい遠い遠いレベルでした。高1の始めから数IAは80点ほど取れていましたが他は4割にも満たない壊滅ぶりでした。高2になってから数IIBと地理と国語が半分取れるようになったものの他の科目は相変わらず良くても4割を切るぐらいのもちろんE判定でした。

親も京都出身で京都工芸繊維大学をちゃんと分かっている人だったので何と実家から通うことを条件(!?)に狙うことになりました。

それから先ほど良いこと言うてた担任と柔道場にて三者面談をした時にはお前にこの大学は夢物語やとバッサリ切られてしまいました。その先生は初めて受験する学年を持ったためしっかり意外とデータを集めて判断していたので何も言い返すことができず終わってしまいました。

第三章 感情の行方不明

親はさらに厳しくなりONE PIECEの本を段ボールに入れて封印したりゲームももちろん禁じました。遊びも元々そこまでしてなかったので月1かそれ以下では遊んでいましたが繰り返しの毎日がものすごくしんどくなってゆきました。

1日の始めは6時に起き朝ごはんを食べ6時40分には家を出て7時前の電車に乗ります。小テストの勉強を移動中にしながら友人と合流し、8時20分から授業があり60分×6に大体一つか二つ小テストがあり、週に1~2回は賢くない人達の補習が7限目にあります。そして部活をし、帰りの電車は疲れているので寝たりします。塾がない日は午後8時、ある日は午後10時くらいになります。塾がない日だとご飯はありますがある日だとすでに僕らの朝が早いため親は寝ており冷蔵庫から取り出しテレビも見ず1人で黙って食べ食器を洗い、お風呂に浸かり宿題と小テストの勉強をしていたら大体2時くらいになって、それでも終わらないけど4時間は寝ないといけないので終わらなかった時は小テストをまずやって宿題はごまかしていたり朝の電車の移動中に小テストの勉強ではなく宿題をそれっぽくやった風にしていました。

自分の趣味(漫画)はその合間を縫ってやったり結局のめり込んで徹夜したり、勉強をサボったりもしました。ここではっきりわかると思いますが完全に睡眠不足なのです。それが結局授業中の居眠りにつながるのですが、何回も言ってるように記憶力と要領が悪いし脳の容量もないのでたとえ趣味をしなかったところで覚えられないのです。しかし、発散しなければどっちにしてもストレスは日々溜まってゆきその結果として漫画を描いてスッキリしているわけですが、結局睡眠時間が足りないという繰り返しでした。

1日が36時間なら全てが解決するのにと何回思ったことでしょうか。

しかし、ストレスは授業中に何度も怒られたり塾でも色々言われたり、親にも毎晩怒られたり、親の愚痴を聞き流しながらストレスは蓄積し、そしてその自分への不甲斐なさで自分で自分を責め着実に溜まってゆき全ての指がささくれになったり白髪が増えたりしまいにはおしっこが出ないという事態にまで陥りました。もちろん乳首もストレスがかかるとまた液体が漏れだし耳が突然心臓のようにバクバク言って耳が気になり出したり、尻にでっかい出来物ができたり足は雨の中の革靴の影響で蒸れて水虫に冒されていました。またストレスとは関係ありませんが、安いスパイクしか履いていないので常に足の裏の皮がベリベリとめくれ上がり血が出ていたのもあり、足の臭いは強烈でした。

そして僕はストレスのあまり感情がわからなくなった時期もありました。悲しい時や怒ってる時になぜか笑いが込み上げてきたりして、これは自己防衛なんだなと思いました。それと同時に小6で祖父が亡くなった時父親が笑ってた意味がここにきてようやく自分が同じ身になって分かったのです。そうか、父親も悲しかったんだなと。僕は祖父に出した涙から(そういえばサッカーボールがおもっくそ目ん玉に当たって涙腺が崩壊したのはノーカンで)感傷的になって涙が出るということはありませんでした。今でもあまりにもイラっとしてると逆に笑っている自分がいるので名残はあるらしいです。
逆に素直に面白いという沸点がなくなり愛想笑いが多くなっていった気がします。でも、陸上部と話してる時だけは心の底から素直に笑えました。それがせめてもの救いでした。


完全に身体がおかしくなってゆくのが分かりながらも命の危険にまではならなかったのでそれがストレスのせいだと気付きませんでした。(これらが受験終わってから全てきれいに解決してストレスだったと初めて知りました)

またこの頃からは完全にB'zにドハマりし自分でも無いお金でアルバムを借りたりしていました。今の自分はB'zが作ったんじゃないかというくらいの人格者でこういう人になろうと本気で思い、特にドロドロした自分に心あったまる歌詞や、逆に刺さる歌詞などあり「自分のせいだと思えばいい そして自分を変えればいい」には今までこの文章のように受け身になりながら文句だけ言っていたんだなと身をつままれ、人のせいや環境のせいにしてはいけない、自分が変わればいいのだと気付かされました。
しかし、徐々に何もかもを自分のせいにし過ぎてしまい壊れてしまいます。

こういったストレスを徐々に陸上で昇華していました。高1の秋からすでに1軍のマイルメンバー入りを果たし、個人もさらに伸びてきた時期でそれこそロンドンで彼女に振られた後は陸上に全てを注ぎました。陸上があったからこそこのストレスフルな日常をしのいでいたものの、両親から突然もうお前は陸上辞めろと言われます。本気でお前のことを考えてこれから大学に行きたいなら今なにする時期か分かってるよな?遊んでる暇なんかないんやぞ…そう言われましたが僕の意志も固く、陸上辞めるんなら学校を辞める!と言い返すと父親が、お前それは勉強できてから言うセリフやぞてめぇ…と少し血が上った口調でじゃーチャンスをあげよう、全科目40点以上を取れ、1つでも欠点出したらお前は陸上を辞めろ…

今まで辞めろ辞めろと軽くは言われていましたがここまで本気で条件付けられたのは初めてでした。全科目40点以上は実は高校生以降達成したことは一度もなく、これは即ち辞めろというのに置き換えてもいいものでした。それが本気だと分かったので陸上部の顧問にも相談し、何とか頑張りますと言って必死にやった結果、何とか初めて全て40点以上を取れました。嬉しさのあまり親に見せびらかしましたが、それは出来て当たり前のことを言っただけやろうが、次は3科目で平均以上を出せ、それじゃなかったら今度は辞めさせるからな…と誉められるどころか次を用意されていました。
今思えば上手く誘導させられていたんだなと思いますが真っ只中にいたらそれはそれはしんどいことでした。しかも今度の平均以上は1科目でもしんどいのに賢い人達の中で取らないといけないのでさらに無理難題でした。

それと同時に僕は頭がおかしくなり、ある授業の休み時間にジャンプしながら廊下をスキップしてたらドアに頭をぶつけ大量の血が頭から吹き出しました、3階から地下1階の保健室まで血の道が出来てたらしいですから相当な出血量でした。
すぐに病院に行き麻酔なしで頭にホッチキスを止め傷口を閉じたあとガーゼで血を吸わせていました。これが影響で部活もしばらく行けなくなり僕の救いがなくなりました。これで練習もできずスピードが落ちたらどうしようという不安、ストレスがまた更に溜まってゆきました。

補習にも行きたくありませんでしたが、かつて部活のためにさぼった時これまた幽閉され反省文を書かされた過去があったので行くしかありませんでした。小テストは評点につながっており僕みたいな低成績だとそれができなかったら留年するので頑張るしかありませんでした。また、陸上部は僕以外の11人ともみんな賢い1.2.5組でそう言った相談事はできず、ただひたすら自虐を演じていました。先生も3組には冷たい部分もあり、何かしら1.2組と比較されることが多く過度に劣等感を植え付けられ、ま、3組はこの問題きびしいっか(笑)みたいな風潮も嫌いでした。だが僕含めそこからのし上がろうとする人はほとんどいませんでした。そうしてくうちに夏が終わりました。

第四章 嫉妬

二学期は初の委員立候補をして体育委員になりました。理由は、ありません。誰も挙手しなかったからだとかそんな単純な理由だと思います。
だが運動会では体育委員は旗手を務めないといけないらしく緊張感もありました。またデコ(運動会の絵)も担当になり、この年はおもてなしや倍返しや野々村さんやゴーストライターや小保方さんなどネタの宝庫でありそれらを描こうとしましたが来賓が衆議院議員が多く野々村さんはさすがにダメということで却下され仕方なくるろうに剣心を題材にしました。その担当には彼女の友達の女の子もいて、その子は僕に少し興味を持った素振りがありました。
しかし、僕はまだロンドンの彼女に引きずっておりまだ目が釘付けで諦めきれませんでした。それは前も言いましたが受験が終わるのを待っていたからです。
しかし、運動会とほぼ同時期にやる文化祭で毎年有志で出し物をするのですが俗に言うイケてる同級生達がバンドをするということでその中のメンバーのことをロンドンの彼女がすごい好意を持ち始めているらしく、その男があいつストーカーじみてて嫌なんだよと少し愚痴を吐いていて、あれ?俺じゃなかったの?となりよくよく聞けば彼女はそいつにゾッコンだということを知り、この瞬間に気持ちが冷め…てくれれば良かったのですが、僕の愛した女性は良い人に決まってる!というひねくれた価値観が蠢き出し僕に脈ナシと分かっていながらもロンドンの彼女にしがみついていました。

なので、デコの彼女とはくっつくことが多かったとはいえ、好きという感情にまではなりませんでした。結局デコで優勝し写真を撮ったのですが2ショットはデコの彼女ではなくロンドンの彼女でした。この時にもし逆だったなら色々変わっていたかもしれません…。

僕は相変わらずそれでも女性とは喋れませんでした。しゃべれたとしても当たり障りのない会話だけで深い話はできませんでした。
そんな中僕と出席番号が近い男達は僕から見ればあまり魅力的とは感じないものの、女子としゃべり女子も楽しそうにしています。男はおよそ3人組で1人リーダー格がいて1人1人だと非力ですが複数になると突然力を持ち始め会話してゆくのです。
また、そのうちのリーダー以外の2人は言わば僕の味方のようなキャラだったのにコミュ力壊滅の陰キャの巣窟の中で上位だということで急にエセイケてるキャラへと変わったのです。

それは僕が当時一番嫌いな人種で当時ではまだ流行っていなかった「ディスる」という行為が非常に癇の障るものでした。
大学編②-2でまた説明するかとは思いますが相手をディスることで自分が優位だということを分からせ、女性は自分よりカーストの高い男性に惹かれるのでそれを上手く利用した小手先のモテテクニックなのです。
それも当然知らないですが個人的には相手を傷つけるということが有り得ないですし、それに少し喜んでいる女性も好きじゃありませんでした。何より僕の前でそのロンドンの彼女とデコの彼女がそのメンツで喋って笑っているのがおぞましく不愉快でした。

掃除の班も奇しくもそのデコの彼女とロンドンの彼女、そしてその男達のうちの2人がいたのでデコが終わった後は完全に2対2でしゃべっていてキツい思いもありました。エセ陽キャなので他人の気遣いはできないのでひたすら自分のターンだけの会話となるので僕ら余りの男は黙って掃除をしていました。
また、3組は高1まで男女比7:3なのが3:1になっておりまた癖の強い人しかいなかったのでその中で唯一B'zでつながりのあった女性とは話すことはできました。しかし、性格は男勝りではあるので女子と喋れると言えればそうでもないような気もしました。

授業の日常もストレスが溜まってゆきいつしか人の笑い声すらもストレスの元となっていました。人の幸せが自分を貶めているからで、逆に人の不幸が自分にとっては最高の幸せになっていきました。そうなると非常に厄介で他人の幸せが全てストレスとなり、救いにしてたアイドルの笑顔もストレスになったわけですから、地味にその発想は精神崩壊のきっかけになりました。

ウォークマンなどももちろん持って行ったら停学なので本当に無理な時はトイレで弁当を食べる時もありました。まあでも実際ほとんどは黙って1人でパッパッと食べてトイレに籠もってるか、座りながら机をうつ伏せに寝ていました。たまに話したい時は3組ではなく友達のいる5組か1組に逃げたりしました。
やはり拘束が厳しいのが自分にとってはストレスの救済を没収されていたので溜め続けることとなりました。

この頃になると弟は公立中学なので高校受験を控えていました。サッカー部のキャプテンで生徒会にも所属したり成績もある程度優秀な真面目な人間でした。弟にはipod touchを買ってもらっているため、僕は必死で弟のパスワードを調べて皆が寝ている間にこっそりと見たりしていました。履歴が残るのでバレないように一文字で区切りながら慎重にやっていました。音も出せないですし、周りが起きてこないか気にしながら見ないといけないので結局毎回落ち着くことはできませんでした。

今はまだストレスだけ溜まってる状態ですがとうとう高校の冬で爆発してしまいます。色んなことの積み重ねではありますので何がこうさせたのかと言えば答えることは難しいですが強いて言うならば吐き出すものを失ったことが大きかったのです。

第五章 孤独の闘い

頭打って休んでからの陸上は案外上手く行っていました…それこそ中身は荒みきっていたので自分より遅かった人に分かりやすくガッツポーズしたり挑発や威嚇をしたり、メンバーの応援はせず永遠と寝ているか遊んだりしてたりスポーツマンシップから遠くかけ離れたことをしていましたがスピードは53秒まで伸びこの時には49秒のエースの次に速くなっていました。髪型もこの時から激しめのソフトモヒカンにしていました。新幹線の頭部分みたいに風を切りさきそうだったからです。ね、当時の僕アホでしょ(笑)
また、補習の後は1時間弱しか練習できなかったり、逆に塾で途中で抜けることが多くなりましたが顧問に相談をして僕特別のメニューを作ってくださったりしたこともありました。
そして辞めろ辞めろと言うてきた両親は秋になるといつの間にかテストの点数は無くなり口だけになっていました。
しかし、また蘇る時期がやってきます。シーズンオフになると女性4人が全員引退し、走り納めのタイミングで男4人が辞め残り4人となりました。8人とも受験を理由に辞めていったこともあり、一番勉強しなきゃいけない僕がどうして残っているんだという雰囲気に家族ではなってゆきました。

ついでに辞めたみんなと辞めれば良かったのにと言われましたが、僕は高1夏に立てた「400m50秒を切る」目標をまだ切れていませんでした。そしてそれはあと半年しかないのに、そして今良い調子なのになぜ辞めなければならないのか、僕は腹をくくり勉強を犠牲にし、そして陸上で結果を出すためより自分に厳しく練習しました。

野球部グラウンドに許可をもらい野球部が素振りや筋トレしてる間に一人400mを5周したりした時もありました。またそれに感化された後輩も一緒に厳しいメニューをやったりし、初めて能動的に部活をやろうとしました。ちょうどこの頃くらいからでしょうか、400mをやることに快感を覚えるようになりました。というより、僕のこの荒んだ感情を吹き飛ばしてくれるのが脳も身体もしんどくさせる400mを走ることくらいしか無かったのです。
つまり麻痺させることでしか僕を止めることができなかったのです。それと同時に塾の頻度がものすごく多くなりほぼ毎日行くようになり、つまりほぼ毎日親は寝ている状態でほとんど1人でした。そして事もあろうかこのタイミングで水道管が破裂をし、お風呂からお湯が出ないという事案が発生し冬の寒い時期にぬるま湯以下の温度の水で身体を流し、お湯も貯まらないので立てた手のひらと同じ深さの浴槽内の水を身体を一周させることで温まっていました。
お風呂ってストレスを癒すのにすごい大事ですね。死ぬかと思いましたよ。

漫画も時間が無いので書くのをやめ、所々にキャラクターを書き闇を吐かせることで落ち着かせていました。
日曜日も塾があるので実質毎日授業があり毎日ストレスだけ溜めてゆき夜中に帰る日常が永遠と続きました。そして身体も次第に保たなくなり、帰りたくないという気持ちが冬の寒い間なのに外で夜の海を見ながら思い耽る日々が続きました。

第六章 死の光

心が限界になったある日、夜中に橋の上に立った僕は生きることについて考えてみたのです。
そもそも生物学的に生きるということは子孫を残すことにあります。
そして僕は結婚をしないことを既に決め、もちろん子供を持つことは僕と同じような目にはあってほしくはなくもってのほかでありました。つまり生物学的にだけ言えば不必要な存在なのです。
そしてかといってやりたいことや夢もなく社会に貢献なんてしておらずただ与えられたものを貪って支えられているだけの暮らしでむしろ迷惑しかかけていないなと感じ、あれ今生きる意味なんてないなという考えにたどり着きました。
今死ぬのは迷惑だと言うが、その時の僕はこれからの生きる迷惑を考えると今死ぬ方がかえって迷惑にならないのではと思いました。

その考えが一度べったりくっつくと毎度生きていてふとした時にちらつくようになりました。

僕はじゃあいつ死ねばいいのか、死ぬ権利は誰にでもありある程度は自分でコントロールが効きます。せっかくならキリよく死なないと割に合わないな、そう思いました。2時間ドラマで1時間半見て満足する人はいないように、きっちりとしたタイミングはどこだろうと考えた時に、恐らく僕の要領の悪さや性格で苦労するだろう社会人、その会社を決める面接などが待ち構える就職活動では必ず挫折すると思っていました。
ドラマでも何十社も受けて落ちてる姿を見るし、それが大げさな表現でもないということも知っていました。

逆に大学合格したら死ねばいいじゃないか、キリがいいのではという考えの人もいるかもしれませんが大学合格はあくまで通過点で大学生活のための今の受験であり、少なからずともその未知なる大学生活には僅かながらの希望はありました。
むしろ大学生活に希望を見いだせていなかったら今すぐに自殺を選んでいただろうし、何ならもっと早くに勉強やストレスを溜める意味がないので今までストレス溜めて生きてたこと自体が無駄になります。

つまり、この生活が一生続くとしたら僕にとっては完全に限界になっていました。しかし、分からない大学に無理やり光を与えることで命を食いつないでいました。

ただこのままだとまだ受験まで1年もあり死にたくなる繰り返しとなってしまうので僕はある契約を交わしました。

小学校から僕は性格の悪い人格を変えていこうということで中学からは優しくなろうと決意しました。
それは半分うまくいきました。しかし、悪い裏の人格を消し去ることは出来ませんでした。これを人は裏表のある人と呼びますが、僕はもはや二重人格なのではというくらい壁がはっきりしていました。

段々と優しい人格は増えていったもののストレスにより磨り減ってしまい、この時の僕は優しい人格は1割程度しかなく、本来の攻撃的な人格の方が強く、それを無理やり優しい人格であり続けることすらがストレスでした。なので優しい人格を出し続けるよりも闇をまだ世に出せるレベルにまでマイルドにすればいいのではということに気付きました。そう、人格を1つに統合させるという決断でした。

まずは性欲に忠実であること、そして1日1回闇を吐き出すノートを作り発散させるということ
そして最終は食欲と引き換えに筋トレ欲に変える、すなわち2015年の正月から毎日腕立て伏せと腹筋をやる(背筋は腰が弱いのでほどほどに)というものでした。
また、他の人や物に目移りしないように物欲や好奇心などを全て破壊し、コントロールできるものにすることです。感情も元々狂っていたのを治すことを諦めあえて利用し、一切の無駄なエネルギーを使うことを自分の中で禁じました。
それはもう今すぐにでも考えてしまうような死を何とか紛らわすための処置でした。

性欲に忠実になってからイラストもひどくエロ寄りになったり、リアルではちょっとスカートが触れたりするだけで誰でも好きになってしまいそうな極限状態まできました。そうして何でもないようなことから悦びを見いだし、そして定期的に闇を吐き出し、そして陸上に快感を得ては筋トレでスイッチを切り替える。これらをやるだけでいつの間にか死ぬことを忘れることすらできました。そして大学生活までの辛抱だと思えれば何とかなるのではないかと思いました。

第七章 二度あることは三度ある

僕は授業中何かと落書きするような人でした。これは小学生の頃からのクセで昔は理科ならチョウチョをモスラみたいにリアルに描いてみたり、水上置換法のビーカーを描いてみたり、歴史なら人物だったり意味のあるものでしたが高2の冬からはグロテスクな絵やエッチな絵を授業中にも描くようになりました。受験のためにという口実で下着姿の女性のさまざまなポーズをしてる本を買っては学校で見ていたりしました。それに女の子が1人食いついてきてそれがデコの彼女でした。

彼女も絵が趣味で僕の漫画も読んでくれるほどの仲になってました。正直顔は可愛いけどタイプではなかったのですが、逆に今まで顔だけで選んでたなーと振り返って思ったのです。
そりゃ趣味とかも全く合ってないし振られるに決まってるな…とようやく自分の身の程を知ることができました。デコの子は今までの人と比べて明らかに感触が違い、もしかしたらいけるのではと思いました。
同時に今しんどい気持ちもデコの子が彼女になれば何かが変わるかもしれない…そう思ったのです。この頃は彼女という存在を完全に履き違えていました。僕が求めていたのはこの尖った自分をくるんでくれるぬくもりでした。
時期尚早だなと僕でも思いましたが、曖昧な付き合いだとむしろモヤモヤするので告白することに決めたのです。

タイミングはまた掃除の終わりで今度は会議室である誰も使っていない廊下で告白することにしました。変な恥ずかしいアレンジはせずにシンプルな台詞を言いました。すると彼女は笑い、はははは、えー私のことそう思ってたん??と今までにない反応だったのでもしかしていけたのではないかと思いました。しかし、結果は残酷でごめん…他に好きな人がいるんだーとあっけなく断られました。
え、相手は?と思わず聞き返すと何と同じクラスのあのいきってた男でした。「あの」って言ってもかなり戻るのですが人をディスって笑ってる男三人組のリーダー格の人です。
個人的には少し嫌いで消しゴムを貸した時に消しゴムの消す部分が少なくなったからかカバーを折られて返された経験があり、小さなことかもしれませんがあれは許されることではありませんでした。さらにことあるごとにガイジとか死ねとか殺すを使う人だったので相容れない存在ではありました。
何でそんなヤツを好きになったのかが全く不思議でした。まあ、悪口言われるほど本音をお互い言える関係になったのかな…と勝手に思っていたりしました。

さらに悲しいかな、彼女は続けて え?今日確か物理の補習やんなー?って聞いてきました。教室に戻るとクラスの大半は残っていてこともあろうか女子グループにねーねー🐯が告ってきたんやけど~って言うのが聞こえてそこで女の子の視線が全て僕にゆき、あっさりとバラされてしまったのです。これは完全に言う人を間違えたと思うほどマイナスしか残らない告白になってしまいました。

その日の補習は全く頭に入って来ず、本来帰ろうとしていましたが、いてもたってもいられなくなり部活へ行き叫びながら300mを爆走しました。エースの彼はそのデコが好きな人と友達だったので、おい、あいつのどこがええねん?と聞いたら、まぁー取っつきやすい性格やしなーと案外まともな答えが返ってきて、そうか、確かに俺は取っつきにくいもんなーとしみじみ感じながら帰りました。
帰りの自転車の登り坂で突然、俺って生きたいと思ってんのかなと実験してみたくなりお風呂で入水しようとしましたがこの時は水道管が破裂しお湯が溜まらなかったので浴槽でうつ伏せになってどこまで耐えられるかをやってみたところ結構序盤で身体が暴れゲホゲホっと冷えた湯を詰まらせながら…そうか、そりゃそうだよな、身体は今の今までずーーーっと生きようとしてるしそりゃあ死を抗うよな…なに心だけ旅立とうとしてるんだ…そう思うと自然とほくそ笑みがこぼれていました。

精神状態がここまでおかしくなっていながらも肉体と精神改造は成功し、いつの間にか腕立てと腹筋が毎日しないと違和感を感じるくらい日常のものとなりそれをすることで心を一度無にすることができました。たとえやった後心が荒んだとしても筋トレやった前と後の自分では肉体は成長していて筋トレは努力すれば短期間で成果が出たのも自分の自信へとつながりそれはしっかりと陸上の練習のタイムでも如実に変化していました。

第八章 憧れた人

そして1つ上の先輩が卒業し、今までお世話になっていた淡路島出身の先輩と色々話す機会ができました。これまでの話にはあまり出てこなかったですが生きてきた中で一番尊敬している先輩であります。
理由はその先輩も僕と同じ境遇であまり賢くなかったのですが、1つ上の学年で最後まで唯一陸上を続け、そこから努力をし一発で第一志望に受かった有言実行な粋な男だったからです。
その人にたまにおごってもらったり、勉強や人間関係や恋愛のアドバイスを色々貰っていました。
そんな先輩が卒業し、僕の最寄り駅で
「お前はな…絶対強くなる…俺はお前がしんどくてもちゃんと頑張ってるとこを見てきた…最後の引退まで見れんかったのはあれやけどお前は絶対上手くいく!そして受験も絶対上手くいく!最後陸上で結果出したやつは上手くいくんや…あと、お前はこれを乗り越えたんやから将来報われる時がくる、だから今はしんどいかもしれんけど頑張れよ」と言う励ましのメッセージと「あとはな、偶然じゃなくて大体起こってることは必然なんや、ONE PIECEで言うてたやろ、俺あんま詳しくないけど」と意味深なことを最後に聞かせてもらいました。
僕がまともな精神状態なら涙が出るくらい感動していたところですが、目は乾いていました。しかし、この先輩は妙に説得力があり、根拠は無いのに受かるんじゃないか!?と自信が湧いてきました。

俺はこの二年間…いや五年間…いや17年間…しんどい思いを色々してきた。ついに俺が輝く時が来たのだ…とりあえずここまで頑張ってきたんだから最後まで頑張ろう、受からなかったら死ねばいい、受かったら大学通ってそれから死ぬか死なないか決めればいい、この1年はとりあえず胸張って死ねるように後悔のないように全力で生きよう、そう心に誓い高校3年生へとなる…

しかし、このまま上手くいくかと言えばそうでもないのが現実……まだまだ鬼門は待ち構えていたのでした 高校編③へ続く