自分の半生 ~高校編①

僕がしんどかったのはマイナスが大きいというよりむしろプラス要素がほとんど無かったからのように思えます。

父親がうつ病と診断され、そこからの給料はしばらく上がらず正直私立に行かせるにはギリギリの金額でした。中学になってからは母親もパートで働き始め何とか食いつないでいました。

母親は僕と弟の教育費をなるべく均等にしたいという考えがあったので弟には物を与えられていましたが、学費で既にほとんど使われている僕にはほぼ最低限のことや物しか無かったため、遊びも定期圏内で外で費用のかからない遊びをしたり(それはそれですごい楽しかったですが)、まあ要するに周りを少し羨んでいました。最寄り駅から少し歩いたとこにある海に向かってただひたすら水切りして遊んでは帰る日もありました。

第一章 苛立ち

白陵は特にお金持ちが多く、また賢い人がモテる価値観に次第へシフトしていき(僕の妄想??)、お金も知能も持ってないし、トーク力も無かった僕にはこの学校では何の価値もありませんでした。
周りの僕を見ている目が心なしか見下されているのではないかという感情になり、いつの間にか自虐的に生きることが多くなっていました。

昔から自分のやりたいことなんてありませんでした。つまり夢みたいなのは無く、文系に行きたいのか理系に行けばいいのかも分かりませんでした。前の塾は主に中学をメインに教えていたので高校からはその塾の先生も通っていたという東進衛星予備校に行くことになりました。

もとより塾なんか行かなくても授業だけで東大受かるという白陵の先生の意見は要領の良い人かそれを努力で持っていける人しか通用しません。
これまで色んな白陵生を受け持ったとされるニタニタと笑うめざましテレビの三宅アナウンサーに似た小太りのおじさんと面談しました。

最初に聞かれた質問は「君は何をしたいの?」でした。
僕は強いて言えば「何もしないをしたい」でしたが、特にありませんと返しました。
その後何大学志望?文系?理系?と立て続けに聞かれましたが、何1つ答えることができず、とうとうその先生は君?白陵でこんな夢ない人と出会ったのは初めてだよ(ニタッ)白陵入っといてそれはダメだよ、といなされましたが…人それぞれ違うのだからそのレッテルで話し掛けられるのが凄い不快でした。
それから露骨に嫌な態度をとっていたら違う先生に変わってくれました。
その先生こそ僕を京都工芸繊維大学に導いてくれた人でした。その話は高校編②で話します。

高1は音楽、美術、その年に初めてできた書道の選択によってクラスが分けられました。一番楽で低費用なのが音楽だったので音楽のクラスに入りました。この時はまだ賢さで分けられていなかったので周りは特に賢い人達ばかりでした。陸上部は唯一エースの彼と一緒になり、中学時代はまだ距離感がありましたが、この1年間を通じてかなり仲良くなったと思います。同じクラスになったのは1つありますが、もう一つは僕の成長です。中3で59秒になり、高校の夏には56秒まで上げました。高校からは新たに400m×4のマイルというリレー競技が加わります。

当時の彼は49秒で近畿でも通用するレベルでもちろん1番手でした。僕はまだ5番手でしたが、先輩のマイルを見て僕もいつかこのリレーに参加したいと夢見てました。高校から徐々に陸上に対する熱意も上がってきたかなと思います。
しかし、その燃え上がる熱に親は警鐘を鳴らしました。勉強のためにならないものにうつつ抜かしていると良い大学行けないぞ!陸上で飯食っていけないんだから!と。僕は元々プロ陸上になる気はないし、多分高校で辞めるから今燃えるものを見つけて頑張ろうとしたのに何で水を差そうとしてくるんだ??という反骨精神をたぎらせてそれをむしろエネルギーにして頑張っていました。

そして完全に火がついたのは夏補習中の四者面談(僕+両親+先生)でした。先生は生徒に好かれるような緩い先生でした。お前何部だっけ?と聞かれたので陸上やってます、400m専門ですと返すと あ、彼と一緒か…!お前何秒で走るんや?と聞かれ、55秒です…!と答えたらとんでもない一言が返って来ました。
「おそっ…」
仕方ないです。事実遅いです。そして先生は先に彼と面談し同じくタイムを聞いていたのでしょう。さらに先生は続けます、
「彼は49秒やぞ、じゃー次は50秒切りやな(笑)ひょいと出せるやろ」
僕は怒りとやるせなさで顔が引きつりました…俺が3年かけてやっと出た55秒をこの一言で済まされたくありませんでした。何でこの人は無責任な言葉を言えちゃうんだろ…許せない…絶対見返してやる!!とここで初めて陸上に対して明確な目標が生まれました。「400mで50秒を切る」そしてこれは切ってから笑い話にしてやろうと思いました。

第二章 告白

僕は彼女と別れてからはまたゆいはんに戻っており、アイドル友達が野球の試合で行けないからと貰った握手券で初めて生でゆいはんと会いました。好きですと言ったが2秒もなかったのでちゃんと伝わってたかと言えば微妙です。でも確かにゆいはんはいたんだ!手のぬくもりを思い出したりしていました。レーンにはぱるるもいたのですが彼女は相変わらず塩対応でした(笑)

高校になってからあれ?この人かわいいなという同じクラスの女の子がいました。なぜそれに今まで気付かなかったかはその子はあまりにもおとなしく喋り声すら聞いたことないような人だったからでした。もちろん成績は優秀ですが、前に立って発表する時は耳を真っ赤にして話す内気なところも可愛かったです。吹奏楽の部活に入っており、音楽になると人が変わったように堂々とリコーダーを吹いたり何より彼女の透き通るような歌声は普段の声を知らない分余計に神妙さが生まれ、その美しさに完全に胸を撃ち抜かれてしまいました。

その女の子とは掃除のグループが一緒だったので事務的なことを話したりしましたが、首を縦に振るだけで会話はありませんでした。僕は何としても彼女を笑わせたいと思い授業中ちゃらけてみたりしたもののクラスが少し笑いが起こる中彼女は全く笑ってませんでした。それより他の男性にはたまに笑う姿を見て嫉妬していたりしました。
またその子は先ほどの嫌いな先生には気を許しているところを見て、何で…アイツのどこがええねん…と睨みながら見ていたりしていました。

この時期は僕を変える要素がたくさんありました。ある夏の日、陸上部の友達がライブ一緒に行こうぜ?と誘ってくれました。彼はロック系のバンドが好きで今回誘ってくれたライブはB'zでした。B'z?誰だそれ?僕はそう聞き返しました。そうなんです。高校までB'zを全く知らなかったのです。すると彼はあーウルトラソウルとかイチブトゼンブとか歌っとる人やで…まあ、俺のウォークマン一回貸すから聴いとけよと中には25周年ライブがその年にあるらしく25年全部のシングルが入ったアルバムが入っていました。
何曲か聴いた曲があり、太陽のKomachi Angel、LADY NAVIGATION、LOVE PHANTOM、May、愛のバクダンなどが最初のお気に入りで特にMayは今の好きな子に対する心情とすごくマッチしており「わらってくれれば僕の世界は救われる」はまさしく今僕が思ってることそのままでした。

運動会の前々日くらいにそのライブは開かれ、先ほど述べた曲がしっかりと出てきて大興奮しました。それよりもB'zの2人の人柄がめちゃくちゃ良く大ベテランなのにオラオラせずむしろずっと丁寧語で喋っていて一流はやっぱり違うんだなと感じました。その中でタイトルが「Endless Summer」で今自分の中で燃えているものを吐き出していきましょう(的なニュアンス?)のメッセージをされていて、これはもしかして告白を後押しされているのかなと受け止めました。

当時の僕は恋愛に対しては全く賢くなかったので女の子は自分から言えないでくすぶってるだけで告白されたら半分くらいの確率でOKが貰えるんじゃないかと思っていました。明らかに僕にはそっけない彼女でしたがもしかしたらあるかもとは思ってました。
ただ場所が見当たらずそもそも2人きりになるシチュエーションになる方法すら難関でした。異性と2人きりで話すということすら滅多にないので緊張に緊張を重ねながら、そうだ、同じ掃除の班の女の子に相談してみようということで話してみたところ、私が何とかいい感じにしてあげるから頑張れ~と応援してくれました。そしてついにその瞬間がやってきました。

わざわざ時間を割いてもらってすまんな…(間5秒)実は🐰さんのことが好きです!付き合ってください!

しばらく無言が広がった後彼女は首を大きく横に振り少しだけ申し訳なさそうに見つめていました。あ、そうか…ははそうだよな…ごめん、じゃあ、お元気で…と笑ってみせながら去ってゆき二度と振り向くことなく部室へ直行し入った瞬間うわあああああああああ!!!と叫び完全な玉砕を果たしました。

そしてあろうことか未熟な僕はB'zのせいにしてそこからB'zを聴くことはしばらくありませんでした。

それからは同じく陸上部の同期がファンであったももクロの妹軍である私立恵比寿中学(通称エビ中)の松野さんにドハマリしました。理由は悲しくもその好きだった女の子に似ていたからもありますし、ハスキーな声も好きだったからです。玉砕からものすごい勢いでハマってゆき雑誌や画像を漁っては眺めていました。ライブには一度だけ参戦し、サイリウムを振りながら楽しんだ思い出があり、高校1年いっぱいは少なくともエビ中にゾッコンでした。

第三章 無情

僕が高1の時もう一つ打ち込んでいたものがありました。それは漫画を作ることです。もとよりスポーツも見るよりやる方が好きですしカードゲームとかもやるよりカードを作り独自のルールを考えたり、漫画も例外ではなく見る視点が自分もこんな感じの漫画を作りたいと思うような人でした。
僕は中学まででは1作品高校では9作品ほど作っていました。一番楽しい瞬間は絵を描く時よりも構想を練る時の方がドーパミンが流れていました。
中3からあらかじめ構想していた作品を高1から着々と進めてゆき一番大作でノート4冊分のものが出来上がったりもしていました。

このように高校では漫画を作ることにハマってたせいで徹夜したり授業中や移動中に考えたりしていたのもあり勉強がよりおろそかになっていて賢い人達とさらに差が開くような結果となっていました。

それを知っていたのか知らなかったのかは分かりませんが、母親が突如、大掃除で中学のノートの大半を捨てはじめいつの間にか僕の大作のおおよそもそこに隠していたため捨てられてしまいました。1冊でも少なくとも1ヶ月かかるようなものを全てあっけなくゴミとして出され廃棄されてしまいました。さすがにこれはショックというより無情な気持ちに襲われました。

また、この頃は漫画家になりたいという気持ちも少し芽生えてきました。それを打ち明けると激昂され、なんでこの中学高校行かせたと思うの!お金がムダになるやろ!あんたがこの学校を選んだんやろ!?漫画家なんてアホでもできるし、あんたはそれすら才能が無いんやからやめとき、絶対失敗する!

言いたいことは分かります、ただ言い方もそうですし、まず自分の漫画すら見せてないのにいきなり否定されたのが何よりもムカつきました。ただこのおかげで目が覚めたといいますか、確かに才能はなかったのでほどほどに趣味として続けていこうかなと考え始めました。

こうも陸上といいやる気がせっかく芽生えたものを摘まれるとその分野だけじゃなく生きる気力すらも失せてしまうんだなと改めて感じました。
母親は今思えばものすごく強い女性だったと思います。なのでいつも朝食の時間に起きてくれたりパートに休むことなく、そして自分のためではなく僕の教育費のために全てつぎ込んでくてた、素晴らしい母親でした。でもそれと教育法は話が違います。
基本的に強いということは言い返すと頑固でもあり自分の考えは絶対に曲げない人でした。
母親からごめんなさいの一言も聞いたことありませんし、自分が一番正しいと思っている人です。

そして自分が貧乏であり賢くないことをコンプレックスにしてるのか、考えがゴシップやメディアに傾いた僕の嫌いな低俗な発想をしつつ、息子には目標高い学校を強いて、何か都合が悪いと誰が稼いでると思っとるねん!私がおらんと生きていけんやろと二日にいっぺんは言う人でまともな話は通じないような理不尽で覆われたような人でした。
1ストレスが溜まったとしてそれを吐き出すと10ストレス返ってくるわけです。なので多少のストレスは耐えて生活したほうが最小限のストレスで生きていけると判断し、黙って従おうという決断をしました。

父親は京都から名古屋や東京に行ったり転々としていましたが僕らにとっては会える頻度は変わらないし単身赴任という事実に変わりなかったのであまり関係ないことでした。
母親より幾分かは話の通じる人で、お酒、タバコは吸わない人ですが、非常に短気で自分の思い通りにならないとキレる人で、言葉の端のちょっとした部分に注意しないと揚げ足を取られ文句を永遠に言う人でした。
陸上をけなされたあの四者面談もほおづえつきながら鼻くそほじって聞いていましたが僕が授業中寝ていることがあると言われた瞬間立ち上がって黒板に僕のフルネームとこれから1週間寝ないことを誓いますと書いて、じゃーお前これから頑張れよと言うような突拍子もないことをする人でもありましたので苦労することもありました。ただコミュニケーション力はあるので救われることもありました。

第四章 人間不信

母方の祖父がなくなった後定期的に食事会が訪れる中で親族が集まります。大概が女性で男といえば家族と結婚を否定した祖父の弟くらいです。
女性不信になった理由はここが大きく、別に僕が何をされたとかそういうのではありません。ただ女性で集まってしゃべってる時は誉めたり楽しい会話を弾ませているわけですが、誰か1人トイレで抜けると急にスイッチが変わりそのいない人の悪口で会話が盛り上がるのです。そしてトイレから帰ってくると何事もなかったかのようにまた楽しい話をしているのです。

何が怖いのかと言うと楽しい会話でさえ真実なのかどうか分からなくなり、心の中では相手の悪いところばかり見られているのではないかという感覚があります。これは実際に大学になってからも結構ある話で僕が抜けた途端に僕の悪口が繰り広げられていると母親からは聞きました。
まあ、はけ口になっているのならそれでいいのかもしれませんが、当時の僕は何を信じていいのか分からなくなり、素直に褒められたとしても何か裏があるのではないかと考えてしまうようになりました。

この発想はとても残酷で一度素直じゃなくなると何事にも不安が募ります。
遊ぶ約束をする時は連絡手段が当時はなかったので学校で直接何時どこ集合でという連絡を交わすだけなのですが、当然もしここでドタキャンされたとしても分からない訳です。これを一度されたことがありまして、スマホがないわけですからまず時間は合ってるのか、そして場所はここで良かったのか…もしかしたらバスや電車に乗り遅れたのか、それすらも分からない訳です。だからすぐ帰るという訳にも行かず、場所が違う可能性もありますし周りをうろちょろしながら待つ訳です。
1時間経って誰も来ないとなると次第に自分だけが違う場所を伝えられてハブられているのでは?とか、あーもしかしてみんなは他の場所でもう楽しんでるのかな?とか自分を次第に責めるようになり惨めな気持ちになり家に帰ったことがありました。
実際は直前で中止になり自分にはその連絡がついてないとのことでした。それからというものの待ち合わせの時は毎回最悪の想定をして、あの惨めな気持ちにならないようにと、もしかしたらおらんかもしれんな…とか一番乗りで着いたらもしかしてはめられてるかもな、とか考え出すと人を次第に信用するということが無くなっていきました。

しかも誰かと遊ぶということは僕にとっては珍しいことで且つ唯一嫌な日常から抜け出せる心待ちにしてる機会でもあったためにそれを裏切られた気持ちといったら相当心にくるものでした。

白陵の生徒も少し僕には嫌悪感があり特に賢い人達はアホな人をかなり見下していたと思います。完全に偏見ですし、一部の人間だけですし、僕の友達はそうでなかったために友達になりました。
少なくともその見下してる彼らは努力をちゃんと積み重ねて好成績を出しているからこそ上にいるということは前提の上でやはりそこには要領の良さや家庭環境の良さも当然あるのです。
僕はかなり記憶力と要領が悪く、人一倍本来は時間をかけて覚えないといけないのですが、中3までで高1を終わらせるような詰め込みの授業ではそもそもまともにしたとしてもギリ追いつけるかの問題で、僕はそこで中2の後半で諦めが出てしまったのです。

恐らく彼らはそれを努力不足と言うのでしょう。ぐうの音も出ないほど正しいですが、努力するまでのエネルギーでほとんどのことを使い果たしたり、勉強以外で苦労している人の気持ちも分からないんだなと思うことが多々ありました。

またやるからには責任を持って欲しいという気持ちが芽生えたのもこの頃で高1の運動会で花形であるスウェーデンリレー(100+200+300+400+100+200+300+400)があり高1~高3の全体でやるのでクラス3人のところ僕含め4人手が上がり1人辞退しないといけない状況になりました。もちろん、エースの彼は出場決定として僕は200mの個人も出ていたことをある1人に指摘され、お前抜けてくれ、俺らが頑張るから!ということで仕方なく抜けました。

2人はサッカー部とバスケ部でそのバスケ部の人が400mを担当になったのですが、彼はえ~~走りたくないと拗ねて結局本番ギリギリまで文句ばかり言ってました。そしてその走りも少し気だるげで何人かに抜かされていました。その姿を見て僕はお前がやりたいと言ったから抜けたんやろ、ふざけるな!と言いたかったとこですが、雰囲気を壊したくなかったので言えませんでした。僕はそういった気分がコロコロ変わる人や無責任な人がものすごく嫌いになりました。

嫌い!と言ってるもののこれが案外自分にも当てはまっていたりしました。この頃は自分の存在を底辺だと思っていました。自分を激しく蔑んでるからこそ相手が僕と同じようなこと、もしくはそれ以下だったりすると僕でもできるのに何でできないのやと同じように蔑んだりしていました。

この頃になると考え方も過激になり老人の半分はいらんだろとか嫌いなやつにはとことん嫌いと悪口吐いていたりしていました。この考えが自分でも苦しめてもしかしたら相手に同じようなこと思われてるのではないかと疑心暗鬼や被害妄想が膨らんでゆき、それをまず自分で傷つけて傷を浅くするためとしても自虐を使うようになり、いつの間にか僕が出しゃばってはいけないんだ…そうか、僕は幸せになってはいけないんだ、他の人を安心させるために生きるのかと考え始めるようになりました。

それは、親から何をしても否定され、成績が上がったとしても他のみんなはもっと賢い、たかが少し上がったところで喜ぶなと怒られる。父親はほとんどいないし、居たところでもっと母親の気持ちになってみろと言われる。弟も順風満帆な生き方をしていて、周りの友達もいわゆる賢い人達だったので誰にも相談できずただ海を眺めては自分のちっぽけさだけを思い知り、ただその悶々とした感情だけが溜まってゆき陸上部のメンツとそういったことを考えさせないような何気ない会話をする時だけが唯一の楽しみでした。

第五章 乳首

最後にお口直しといってはなんですが、高校用の体操服を買ったのですが、名前の刺繍部分がちょうど乳首に擦れる場所があり授業では気になりながら楽しんでました。
しかし、徐々に痛くなりだし(これはストレスらしいですが)かゆくなり始めました。夜中でもそのかゆさは止まらず膿ができ乳首から黄色い液体がだらだらと出始めました。これが厄介でシャツにちょうど乳首から下に液体が付着し洗っても少しだけ跡が残りまたついには血も出てき始めこれではさすがにダメだとニップレスを購入しましたが、周りにいじられるわ、付けた時にかゆくなりはじめかえって悪化してしまったので断念、限界になったので皮膚科の先生に思わず相談しました。60は超えているおばあちゃんの先生にただれた乳首を見せ、これを見た瞬間に「今から3つの質問するけどちゃんと答えてね」と言われました

1つ目は君?花粉症か何かアレルギーがありますか?と聞かれ、アレルギーがあるので「はい」と答え

2つ目は君?弟か妹がいるかい? え?何でその質問いるのかと思いましたが「あ、弟が1人います」と答え

3つ目はその弟にアトピーはある?と聞かれ、何でこの人は知ってるんだ!?と思い、「あ、あります」と全て答えました。

「君はね…乳首だけアトピー残ってます」

え?「多分昔、君もアトピーだったでしょ?」は、はいそうです「でも治ったはずのアトピーがストレスで突如局所部分だけ発生したのよ」なんでよりによって乳首…!?「でも薬塗ったら治るから安心して」……良かった治るんだ。そう言われ、3ヶ月くらいはかかりましたが何とか血も液体も出ずに済みました。しかし、今までピンクだった乳輪は黒く変色し乳首周辺が膨れ上がったため乳首が大きな人になり、一時期あだ名が「乳輪王(ちちわおう)」になったとさ…めでたしめでたし