自分の半生 ~中学編

まずは僕の友達の定義を明らかにしてから本題に入ろうと思います。

今現在の価値観では「離れた環境でもお互い会う人」のことを指すのかなと思ってます。その考えに至ったのは大学からで結局高校まで色んな人と
遊んできたけど大学生になって実際に会った人なんてほとんどいないんですよね。
会いたいっていう気持ちが恐らくお互いにあって必要とし必要とされている存在でないとなかなか会おうというきっかけも生まれないですし。

何が言いたいかと言うと小学校の頃の僕は友達がいると思ったんですが、中学生から私立の学校に行き離れ離れになった瞬間に疎遠になり、あ、所詮そこまでの関係だったんだなと思い、今の友達の定義を考えると小学校の頃は本当の意味での友達はいなかったんだなと考えています。

第一章 出遅れ

希望と期待を胸に僕は白陵中学に通うことになりました。塾で同じだった人がちらほらいるくらいでほとんど周りは知らない人、そして自宅から80分(帰りは最寄り駅から自宅まで登りなので90分)という遠い田舎の山奥の新しい環境でのスタートは緊張もありました。
正直白陵を舐めてる自分もいてみんな勉強ばっかりしていたから勉強の堅物しかいないんじゃないかと高を括っていました。

しかし、その望みもあっけなく壊れてしまいます。まず運動能力も中1なのに50m6.6秒がクラスだけで3人もいたこと、そして音楽も1人1人テストがある中僕だけリコーダーを吹けず後全員はしっかり吹けてたこと…そして中間テストも頑張った割には下から1/4で副教科はおろか小学校までそこそこ得意だった勉強までもガラガラと自信を無くしてしまいました。

そう、白陵の生徒は勉強のムシというよりむしろ要領が良く文武両道な人が多かったのです。いきなり出鼻を挫かれ早くも小学校の劣等感に逆戻りしてしまいました。

なぜそうなったのかは前章で最初に述べた要領の悪さでありました。今まで頑張ってきたのは国算理だけなのに対し、中学からは英語や社会も増えていきます。特に英語が僕にとっては厄介で小6から事前に予習していたものの、やはり進学校だからでしょうか、進めるスピードがものすごく早く出来ない人は置いてかれるようなスタイルでした。
それは数学などでも同じで中1なのにいきなり大学への数学を出してきたりそれを理解できないまま進めてゆき、得意だったはずの計算も周りはそれを上回るような力を持っていて、先生はその賢い人をベースに授業するので復習と宿題が追い付きませんでした。
さらに当時は147cm28kgというピークでガリガリだった時期でもあり重い荷物を登下校持ち運びするだけでもしんどく帰ったら何も出来ないまま寝ることもありました。日が経つごとに置いてかれていき既に1ヶ月ほどで雁字搦めとなってしまいました。

そんな中、仲良くなってきた人もちらほらでき、しんどかった割には何とか食らいついてはいました。中間テストが終わった後ようやく部活の解禁が始まるのですが最初は卓球か生物部になろうかと考えていました。卓球は家の壁を使って1人遊びでやってたのと経費が安そうなのと、生物部は昔文化祭に行った時に面白そうだったからです。しかし、周りに卓球したい人はおらず、生物部もクセの強い人しかいなかったために悩んでいました。仲良くしてた1人は陸上か将棋で悩んでると聞き、彼はさっきの6.6秒出した人でもあり、僕は陸上やりなよと勧めました。この時の自分は特段陸上やりたいなとは思っていませんでした。

しかし、その気持ちを変えた事件がありました。ある日廊下を(理由は忘れたが)走ってた時に1人の男に お前陸上やらんか と言われて、そいつは同じクラスではありましたがここで初めて話して、彼もまた6.6秒を出した人でもありました。

僕は彼みたいに速くなりたい…!!とは思いませんでしたがクラスを見れば4人すでに陸上部に入りたいという人がいて友達作りとしてのきっかけではありだなと思い、陸上部の見学を決意しました。
初めは雨で室内練でしたが和気あいあいとした雰囲気で楽しそうだったので入ってみました。ちなみに陸上と将棋で悩んでた6.6秒の彼は将棋部に入って、もう一人の男もサッカー部に入っており、世の中の広さを痛感しました。

陸上部は中1から高2(高3)まで全員同じ所で男女一緒にやっていたこの学校では少し珍しい部活でした。メニューはスピードによって異なり既に6.6秒の彼は高校男子と一緒のメニューをこなしていました。
その彼以外は大して速くないだろうと思っていたら短距離に関しては同い年の女子にも負けていたことに気付き、いわゆる一番遅いグループでした。完全に陸上部でも置いてかれてるような劣等意識がありました。
同期では姫路方面と加古川方面で完全にグループが分かれており、その中でも同じクラスの加古川方面の友達とは仲良くしていましたが他はまだ少し距離感があり誘ってくれた僕とは逆の姫路方面の6.6秒の彼は年上とよく絡むため少し話しかけづらいなとは思っていました。

僕が最初に仲良くさせてもらったのは1つ上の先輩で淡路島から姫路まで通っておりその経由駅が僕の最寄り駅だったため、たまに会った時は一緒に帰っては本来は買い食いは禁止ですが最寄りのスーパーでお菓子を奢ってくれたりしていました。
また、3つ上の先輩方も同じ方面で後輩思いであったので最初の1年ほどは同期よりも先輩方と帰る方が多かったです。

当然、走りが速いという理由では入っていませんので短距離が埋まってたため、最初は長距離を試みましたが長距離でも同期の女の子に負けたのが悔しくなり、たまたま空いていた400mを頑張ることにしました。中1の頃の400mは途方もなく長く感じました。
初試合は4時30に起き5時30の電車に30分以上乗り着いてから45分制服で1人で歩いて集合の7時前に着いて体操服に着替えた後みんなでアップしました。毎回集合が7時だったのは未だに謎で自分の試合は午後だし睡眠時間などの調整を考えりゃそりゃベスト出せねーだろと今なら思います。ただ昔はそれが普通だと思っていたので気付きませんでした。デビュー戦は72秒以上かかり全選手の中でビリでした。

それに関して悔しいという感情もなく自分は何してもダメだなーとそれだけが頭を埋めていました。時同じくして土踏まずを痛めてしまい、体幹レーニングするしかなく完全に陸上熱が失せてしまい部活には参加するも裏で寝たり遊んだりサボっていました。
この頃は筋トレが苦手…というより痩せすぎて筋肉が無く背筋や腕立てはどう上げるかも分からないくらいでした。なので腕立て伏せを1回から順々に増やしていきこの頃には浅いですが20回くらいできるようになりました。そうしてる間に中2になっていました。

恋愛に関しては完全に初恋を引きずっていました。しかしチャンスは早くも訪れ中1の夏に早い同窓会があり土曜日だったため午前授業の後制服のまま少しだけ参加しました。最後体育館の窓を閉める時彼女と少しだけ会話しサラリーマンみたいじゃんと笑ってくれたのは今でも脳裏に焼き付いています。そして少しだけしゃべりはしましたが、結局告白の類は言い出せずこれが最後の彼女の会話となりました。ただその笑みは忘れられず結局中2までは彼女のことが好きなままでした。

アレルギーは負荷療法と言って僕は卵と乳製品が主なアレルギーだったので小学生の時からゆで卵1gから、牛乳1ccから摂取していきどれくらいアレルギー反応が出るかを調べる訓練をし、定期的に小児科で報告をしていました。しかし、アレルギーは運動との相性が悪く部活を始めてからはする回数を減らしていました。
しかし、その頃には何も食べれなかったのがお好み焼きなどの少量の卵やうずらのような小さな卵なら多少アレルギー反応は起こるが食べられるようにはなりました。ただ温泉卵のような生ものを少し食べただけで一週間下痢が続いたり、牛乳に関してはしばらく続けても30cc止まりで正直何も食べられるものがありませんでした。同時に僕はアトピーや喘息持ちでもありましたが、何といつの間にか陸上をやっていたお陰で並以上に肺活量が強くなり治ってました。

というように、出来ることが少し増え「普通」に一歩近づいている感覚が少し嬉しく思いました。

白陵はスパルタという噂はありましたが、半分は正しいように思えました。しかし、周りの学校をあまり知らないのもありこんなもんなのかなと思ったりしました。(大学での周りの話やと中学校はだいたい校則厳しいとこが多いらしい、でも高校は緩いらしい)
運動会の頭右みたいな軍隊チックな行進、絶対に週1である柔道(冬寒すぎ)(荷物重すぎ)、立たされる、体罰(?)、廊下に出される、厳しい処罰、まあこういうのは不真面目な人限定ではあるので仕方ないとは思いますが、成績を最下位まで晒されるとかむしろこっちの方がキツかったりしました。ですが1年もすると麻痺ってきて慣れてしまいました。
校則とかその類についてはまだ語れますが多すぎるので割愛させていただきます。

第二章 骨折と挫折

中2の一年間がある意味キツかった年でもありました。すでに自分に自信を持てるものもなくあまり良い思い出も…かといって何か悪いことが起こる訳でもないまっ平らなものでした。
強いて言えば優しかった英語の先生が辞め、新しく定年越えのおじいちゃんが入ってきたことでしょうか。その先生は完全にアホを見離した授業でここで完全に英語が嫌いになり分からなくなりました。先生の運というものはあるもので生物の先生も僕と合わないような先生になってから嫌いになりました。この頃には理科全般が苦手になってむしろ地理が好きになっていました。

陸上は中2の始めに復活し、身長も伸びたおかげかあまり走っていないが7秒ほど伸び(それでも65秒)3回目で初めて最下位じゃなくなって喜んだ思い出もあります。とは言いつつ同学年の女子よりも短距離はまだ遅く、女の子と練習は走っていました。

そんな最中夏休みの時メニューを終わらせた後脚が水平よりも上がらない事態に陥りました。最初は地元の小さな整形外科に行くと腰が原因と言われマンガで見るようなデカい注射を打たれましたが治る気配はなく、先輩に相談すると良い病院を紹介されそこで調べると「両坐骨の疲労骨折」と診断されました。
よく考えれば授業で座ってる時も尻が痛いなとは思っていましたがまさか疲労骨折だとは…
白陵の机は連結机と言って机と椅子が一緒になってるデザインで一言で言えば非常に窮屈なものでした。そのため椅子に浅くもたれかかることができない上、硬めの木材であったため鈍い痛みと耐える戦いでした。僕が椅子座る態度が悪いのはこれが元凶です。

両坐骨はかなりレアケースらしく治し方も分からなければ治ったタイミングも分からないと言われました。僕の場合歩くのは大丈夫ですが走るのは少し違和感を感じました。先ほど述べたように座るのはもっと痛く、いつまで経っても治る気配が無かったためとうとうお医者さんから筋トレも禁止、すなわち部活を禁じられることになりました。

その間僕は勉強を頑張ろうと決意しました。みんなが部活やってる間に教室に居残りテスト期間じゃなくてもしっかりやっていきました。かなり自信のついた状態でテストに挑み、真ん中あたりの順位に初めてつきました。ここで素直に喜べば良かったのですが、僕はひねくれていたのでこんなに頑張っても半分しか行けないんだったら勉強なんてやる価値もないなと思い込み、これを機に勉強する意識がかなり落ちていました。

冬になると筋トレを再開し、少し走っては違和感を感じ中断し、また筋トレしては…を、繰り返しケガで半年以上消化しあっという間に中3になりました。

ケガもありその間すくすくと身長が伸び中1の時より20cm、20kgの増加をし(これでもガリガリ)いつの間にかエースの女子よりも速くなっていました。この頃にようやく400mを1分切ることができようやくこれからの希望が見えてきました。

第三章 娯楽

ケガの間は正直何の楽しみもなくなっていました。しかし、これがきっかけで陸上以外のものに熱を見いだせるようになりました。1つはONE PIECEです。僕は小さい時からポケモンドラゴンボールドラクエが好きな子どもでしたが、それ以外にはほとんど興味が湧いてませんでした。ONE PIECEは当時新世界で人気の絶頂にあり、この話がしょっちゅう繰り広げられ、それについていきたいと思い読み始めることにしました。そうしたらハマってしまい、中3の頃にクラスメートにONE PIECE数十巻を格安でもらい今でも全巻揃えるほどのハマりぶりです。

2つ目はAKB48でこれまた人気絶頂期で当時カゴメの野菜生活を牛乳で割って(負荷療法のため)飲んでおりその野菜ジュースの特典でAKBの消しゴムが付いていてそれの最初にゲットしたのが横山由依(ゆいはん)でした。当時はまだゆいはんがギリギリ選抜(確かフラゲ)でテレビ見た時に、あ、応援しよとなったのが全ての始まりです。YouTubeとかもスマホが所持していなかったので、ひたすら雑誌やテレビを観ているうちに親にファンだとバレました。でもこの中2に彩りを与えてくれていたのは間違いなくゆいはんでゆいはんがいなければまた違う闇が生まれていたでしょう。これがきっかけで音楽を聴くようになり今までGReeeeNが好きでしたがAKB48も歌えるくらいには好きになりました。

3つ目は性への目覚めです。エロ雑誌や熟女雑誌を制服でコンビニ入って買うようになったのも中2です。最初は緊張して汗だくだくで入りましたが次第に感情を殺して買えるようになりました。誇らしい反面馬鹿らしいですが、特技として認めてもいいのではないでしょうか。その雑誌をメインで中2の時は自慰をしていました。後は妄想で抜いていたのですがネットもなく乏しい知識量だったので股間は想像できませんでした。(雑誌はモザイクありなので)

この3つがエキサイトしたこともあり、次第に勉強から遠ざかり、そして半数以上は訪れる反抗期へ突入します。

第四章 モテ期と反抗期

中3はモテ期でした。修学旅行でクラスの女の子に突然告白されました。しゃべったことも無かったので驚きでしたが理由は言ってもらえずそれこそ自分には魅力がない人間だと思っていたので変な期待はせずドッキリなのかなと自然に考えてしまい本気にしていませんでした。

修学旅行が終わった次の登校日に声をかけて、え?ドッキリだよね?と聞いたらどうやら本気らしく、本気なら僕も責任持って付き合わないとなと考えました。正直好きという気持ちは初恋の人以来無かったのですが、別にかといって嫌いではなく、女子としゃべる良い機会でもあったので不定期に一緒に下校し当たり障りのない会話をしていました。
しかし、異性とのからみが少なすぎた影響で終始エロ本を買う時くらい汗かきっぱなしで毎回目を逸らしながら髪の毛触りたどたどしく話すだけでした。たまにデートに誘ったのですが日曜日は空いてないと断られ、手をつなぐことすらせず半年ほどで結局自然消滅に近い形で向こうから振られました。

人は面白いものでモテる人がモテるというのがここで証明されたかの如く色んな女の子としゃべる機会が多かったです。運動会のデコという絵を作る際のリーダーに僕が抜てきされた時に年下の女の子と初めて絡みができ、中2ではほとんど女子と会話していないのにそれが1年でこんなにかというくらい変わりました。
そして更に面白いことに別れるとパッタリそれが消えてなくなったのです。

あとはクラスメートにはかなり恵まれました。陸上部と多く一緒になり、ここでようやく同期と仲良くなれた気がします。そのうちの1人とは一度寝泊まりし合う関係(もちろん男)にもなり、初めての経験だったので少し嬉しかったです。
陸上同期の女の子とも初めて一緒になり苗字も近く付き合った彼女とも仲が良かったので割と素直に話すことができました。むしろその同期の人の方が好きだったのかもしれません。それももしかしたら見破られていたのでしょうか。

そして最大のイベントは地元の塾に通ったことです。某商業施設の奥でこじんまりとやっていて中を開けると生徒も先生もほとんどが女性でパラダイスでした。
しかし、人見知りなのでほとんど自分からは話すことはできませんでしたが、白陵とは違いかなり積極的に声をかけられ、嬉しさももちろんありましたが、その期待に応えられない自分のトーク力の無さに絶望していました。さらにこっちでは公立の、それも成績下位の生徒を教えてる塾だったので僕がものすごい賢い扱いを受け、狭い世界に今まで絶望してたのだなと少し衝撃を受けました。たまに生徒なのに先生をやったりして、先生の難しさを思い知りました。

地元の中学生がこんなに楽しそうにしてる姿を見ると僕は何でこんな白陵に来てしまったのだろうと考えるようになりました。勉強もあれからする気力も湧かずいつの間にか半分が赤点で下から10番くらいをうろちょろしていました。陸上も希望を持ったとはいえ、どちらかというと遊びたい気持ちが勝っていました。
この頃は反抗期で勉強させられる環境がまず嫌でした。そして先生には真っ向から反抗し、何度廊下に立たされたか分かりません。採点が納得いかずその場でテストをぐちゃぐちゃに破り捨てた時はさすがに怒られましたが、それでも反抗は止まらず、中学の教務長(?←名称忘れた)が受けもってるパソコンを使う授業で僕がゲームしてるのがバレ、正座をさせられ、パソコンの電源を切ろうとしたら、それがまたゲームしようとしてると勘違いされ、廊下で正座になりました。それが無性にイラついて自分の教室に戻って勉強してたらものすごい僕を呼んでいる怒号が響いてのこのこと出て行き、トイレ行ってましたと笑いながら言ったら掴まれながら誰もいない予備室に拉致され体罰が始まりました。そして親呼ぶぞ、俺はお前を辞めされられる権限があるんやぞと脅されそれでも僕はヘラヘラしてたのでお前、俺のことナメとんか!?とキレていたので僕もお前こそ俺のことナメとるやろ!?と言い返すと固定電話が飛んできてお前、これで親にかけろ…!?と言われつつも首を横に振り結局反省文を書かされることになり一言「俺は屑でも星屑、磨けば光る」と書いたらくしゃくしゃに丸められ完全に怒らせてしまい、結局担任が仕方なく何発か平手打ちして2時間ほどの幽閉で事なきを得ました。

………そんなどうでもいい武勇伝は置いといて、この環境から抜け出したいなと考えたと同時にどうせならみんなまとめて死ねばいいのにとかむしろそんな凶悪且つ自分勝手な自分が出来上がっていました。

短気な自分を治すということはかなりできたとは思います。実際問題手を出すことはなく(口こそ反抗期で荒かったのですが)抑えるという感情はそこにあったからです。しかし、中学では優しい人格は顔を覗かせることはなく、むしろ人のせいにしたりする元の人格が現れていました。

教科書の貸し借りを禁じられている中、廊下で教科書を持っていることが先生にバレ、誰のや?と言われた時、俺のですと返したら、じゃーこのペンで名前を書け!と油性ペンを渡されました。実際人の借り物やったわけですが躊躇いもなく難を逃れるため自分の名前を書いたのです。でもこれには自分自身も驚きでプチパニックを起こし咄嗟に自己防衛をしたのだろうと思います。そういうことが有料サイト事件(親のパソコンでやらかした事件、割愛)など無意識下にいるとすぐに人や物のせいにする自分がいてそんな自分が心底嫌いでした。

そして無気力になった原因は元々負けず嫌いだったのに唯一対抗できると思ってた勉強で負けっぱなしになり完全に折れてしまったからだろうと考えています。そして頑張って努力しても無意味、自分は何をしても変えられない…という消極的な自分と反抗期の何もかも殺めたい自分が混ざった結果、どうせ褒められることなんてないのでそれなら反抗すること或いは怒られることで自分が自分であれるようなそんな感覚が芽生えてきたので更に怒られようと拍車がかかった結果このような黒歴史が幾つか生んでしまいました。ほんとにすいません。

普通の中学校とは違い中高一貫なので受験も無ければ部活も普通に中3の冬でも続けられました。そしてメンツに大きな変化もないまま高校へと突入します。
このように中学では正直これといった大きなことはなく、ただひたすらに心を折られたことによる自己嫌悪と反抗が大きくありました。
また自分を変える1つのきっかけがあるとすれば近所の仲良くしてた小学校の頃の同級生が自殺したことが自分としてはかなりショッキングでした。近所の中でも一番彼の家が近く、小学校時代はたまに遊んでいたりしました。
中学になってからも彼とゴミ出しするタイミングで亡くなるちょっと前に会っていて少年ジャンプのたわいもない話をしてたかと思います。
あんな楽しそうにしてたのに亡くなったのを受け止められず認めたくなかったので当然葬式にも行かなかったし未だにまだ生きてるんじゃないかって思う時もあります。
僕の中で生きてれば生きてるんじゃないかって…あまり死をネタにして悲劇のヒロインを演じるのもあれなので(だから今まで話してなかったですが)

逆に僕を大事にしていない人が僕が自殺したとして手のひら返すように友人扱いして悲劇のヒロインのように悲しまれたら心の底から怒りが沸いてくると思ったので生きてやる!と決意したのが15歳です。なのにその2年後、僕は死ぬ計画を立て始める訳ですから、どうしてそうなったかは次章の高校編で話そうかと思います。