自分の半生 ~大学編①

京都工芸繊維大学に合格し、大学までの1ヶ月の間光も闇もない空白の時間ができ、その間で見違えるほど今まで悩んでいた身体の悩みが消え、やはり高校の負の遺産だったんだとしみじみ思いました。
それと同時に何の縛られたものがなくなったからでしょうか、一気に開放されたと同時に顔が老けていったのです。なので大学からは浪人してた?とか新入生の勧誘も来なかったですし、同期から先輩やと勘違いされたり色々ありました。

入学式早々に遅刻し、保護者が座る所で式を見るといういきなり恥ずかしい経験をしました。昼ごはんは癖で最寄り駅のコンビニのトイレでおにぎりを食べていました。オリエンテーションあたりで初めて声をかけられ、最初は僕を合わせた3人で行動することになりました。僕は大学からスマホを与えられ慣れない操作で何とかグループLINEに招待されるも、ほぼ全員が既に入っていました。
どうやら3月にウェルカムパーティーってのがあるらしくそれで大体仲良くなるものだと教えられました。つまり完全に友達作りに出遅れたわけです。

第一章 上京

建築は正直言って0.02mmくらいしか興味がなく、絵も大概は人物画だし、建物は何も興味が湧かずに育ってきてしまったのでこれがかなり痛手となりました。建築学科は浪人してまでも行きたいという人が多く、半数はいわゆる建築ガチ勢であり、理科がな~いとかいう消極的な選び方をした人とは全然違いました。
そのギャップは意外にも大きく、建築が好きな人は大概自分を建築する(おしゃれする、趣味を着飾る)ことが得意だったのでこんな弟のお下がりを着てたおしゃれとは無縁な雑草心しかない僕とはあちら側が相容れない存在だったかなと思います。
また、課題も線を引いたりなどの細かなもので僕は図工が苦手だったので人より遅いくせに汚いというこれまた要領の悪さを発揮していました。しかし、しゃべりかけてくれた最初の人も同じ感じで少し安心しました。

色々と要領が悪かったものの、大学はある程度遅刻しても許されるしスマホをいつでもいじってOKだし寝ても注意されなかったり先生が歩いていても挨拶がないような希薄な関係で居られたり、中高と比べたらそれはそれはあまりにも楽でストレスはあまり感じませんでした。

それに大学からは大学近くの祖母の家から通っており、シンプルに自転車で15分もかからないという利便の良さや、高齢者であるにも関わらず深夜3時まで起きていて睡眠サイクルが一緒だったこと、そして何よりガミガミ言われないことが何より心の安寧につながりました。

逆に親元から離れたことで親が注意してくれたことは愛情だったことを知りました。これは離れてないと絶対に分からないことでした。
同時に母親は少し客観的に見てもうるさい人であるということを祖母や近くに住んでいる叔母などから昔からあの母親は変わっておらず手のかかる人やったと聞かされることでやはり普通ではないということを再認識しました。

どちらにせよ離れたことによって僕と母親の関係をお互いの干渉も減り、客観的に捉える余裕ができたのが一番大きいと言えるでしょうか。

第二章 回帰

部活を何にするかは正直迷っており、高3時点で陸上はやり尽くしたと思っていました。ただ身体を動かしたい欲はあったのでまだ発足はしていないが自転車のサークルを作りたいというデザ建の人達がいたのでそこの集まりに参加しました。
元々何やってた?と聞かれたので陸上部と言い、50m何秒?と聞かれたので6秒6と答えるとえっ?それって遅くない?俺の友達はもっと速かったぞと言われ、まあそこまでは良かったんですが、それから呼び名がおい、遅いやつと呼ばれてからムカッとしたので二度と喋ってやるかと思い、その団体からはすぐさま離れました。

体育館の色んな部活が集まった新歓イベントでは結局最初に目に留まったのは陸上部であり1つ上で大学から陸上を始めたという彼は僕を根気よく誘っていたのでとりあえず行ってみるかと思い陸上部のブースに行きました。

ブースには主将を名乗る男ともう一人女性がいて、まずは女性に声をかけました。
部活という縛りがあまり好きではなかったのでやるとしたらゆるゆるやりたいなと思っていました。そういうことを聞くと、うん、うちらは週2か週3かな?君なにやってたの?と聞かれたので400やってました。と言うと女性はその男と笑顔を交わしやったやん!今マイルメンバー募集してんのよ~!ちなみに何秒?と聞かれたので51.7秒です、と答えると、えっ、、いきなり大戦力じゃん!やろやろ~とテンションが上がっており、あっ、私はマネージャーのデザ建やねん、よろしく~と女性は自分を紹介し、え??マネージャーいるんですか???と僕は目を丸めました、というのは中高はどの部活もマネージャーなどおらず、僕らの場合は各自でマネージャーの仕事をやっていたからです。
また、マネージャーのいる部活、高校時代だと加古川競技場に行くと加古川東というかなり大人数でやっている陸上部が数人のマネージャーが声をかけており心底羨ましい気持ちと嫉妬が入り混じっていました。そんな憧れのマネージャーが今目の前にいるっ!??まあ、そんなやましい気持ちが僕を陸上部へ駆り立てており、いつの間にかLINEグループに招待され陸上部の仮メンバーになっていました。

…少し遡ること入学する前の春休み、高校の練習に参加した時に淡路島出身の尊敬している先輩も参加していました。先輩もまた大学では陸上を続けており、大学では陸上は自分で考えながらやっていく、物理とかはよく用いながら走るしそれはそれで楽しいぞと誘われつつ、京都工芸繊維大学の陸上ホームページで400の十傑を見てお前、こっちの大学ではエースになれるかもしらんぞ、1位でも50秒5や…1位目指してみろよと言われた記憶を陸上部に入った後思い出してやってみようかなと決意しました。

早速部活に参加し部室に行ったのですが短距離と長距離の練習日が違うらしく、人数も数人で少なめでした。みんな表情が暗くスマホをいじっていました。それが嫌というよりむしろ僕もそう言った属性なのでさして気にとめませんでした。僕があまりに堂々と立っていたため、同じ新入生には先輩と勘違いされていました。

練習場所はジョグで1km強ほど走った先に一周450mほどのアスファルトの公園がありました。最初ここでやるのかと消沈するメンバーもいた中、僕は中高L字のグラウンドつまり折り返す時は180度旋回しないといけない、直線は100m取れない、さらに電灯もなく冬にやるときは真っ暗で走ってる人がぶつかることもあった大変不便な過去があったため、それと比べると走る道のりは照らされてるし、しっかり競技場と似た丸みを帯びたカーブと100m走れる直線もあり、そういった面では恵まれていた環境であり、僕はわくわくしていました。
また、工繊だけでなく京都府立大学(以後府大)も合同で練習しており短距離に関しては女性選手もいて正直府大の方が彩りがありました。
練習の質は思ったよりも高く、最初は工繊の先輩に必死に食らいついていましたが体力はなかったため途中でバテたりしていました。

土曜だけ長距離とも集まり他は短距離は火曜と金曜にやっていました。
次第にメンバーが安定し、同期は幽霊合わせてのべ11人、府大は4人いました。工繊に関しては兵庫出身の短距離が1人、大学から陸上を始めた車好きな人とまず仲良くなっていました。
府大では同じ兵庫出身でさらになんと先ほど述べた大人数でマネージャーもいたという加古川東の短距離もいて、お互いのことは知らなかったですが、僕の高校の時のエースと彼が知り合いだったこともありその話で盛り上がりました。

また、400をやる人が非常に多く、自然とモチベも上がってゆきました。

最初の試合は関西大会の応援でいきなり同期が800を走っており、その選手はなんと大阪市大に「さん」付けで応援されていたのです。そういえば1つ上の先輩にため口を聞いており、その先輩は逆に敬語を使っていたので2浪した人なのかなと思っていましたが、実は元大阪市大の建築をやっていた方だったのです。特定の人だけタメ口だったのは高校の時の高3高1の直属の先輩後輩だったからだそうです。
年齢でいうと僕の3つ上で受験し直し生物の過程で工繊に今年入学した人でした。そう言えば最初会った時にお前400m51秒か、短距離見てたらもっとタイム出そうやなと生意気な口を聞いていてムッとしていましたが3つ上なら仕方ないなと思いました。その事実を知ってから最初は敬語で喋ってました。

初試合は6月でゴールデンウイークに新しい高いスパイクを新調しました。これまでは最安値のランニングシューズにピンが付いたようなスパイクを3年間履いており、サイズがあっておらず走る度に足裏の皮が大きくめくり上がり出血が絶えない状態でした。それを我慢しながらやっていたのが今年からそんな悩みも一切なくなるほど足にフィットしていました。
そして、集合時間もそこまで早くなく7時前に起きれば間に合いました。

準備万端で臨んだ試合はいきなりベストが出て51.3でした。喜んだのはつかの間、その3つ年上の同期は50.4と彼もベストを出し、なんと歴代1位をあっさりと塗り替えたのです。結局ここでもエースの座は取られ、彼がエースとなりました。

3つの繊維にまつわる大学(工繊、信州、農工)の総称を三繊と呼び、それらの集まった試合が6月に信州がホームである長野で開かれました。その試合は強制参加だったのでほとんど見なかった部員を見ることがありました。1人遅れてやってきた同期がいて長距離ということと当時は幽霊だったのでほぼ初めて会いました。遅れてるのに謝りもせず毅然な態度を取っていたので最初は嫌いでした。
深夜バスに乗りあんまり眠れない中、その中でも400mはまたベストが出ました。またこの試合にはマイルがあり他2校はフルメンバーじゃなかったもののなんとアンカーの僕が1人抜かし1位になることができました。

その後レセプションと呼ばれる打ち上げがあり、初めていわゆる大学生の悪ノリみたいなのを味わうことになりました。未成年&試合疲れ&コミュ障で完全に孤立して1人黙々と枝豆を食べていました。それは他の工繊メンバーも同じでみな陽気なキャラではなかったので工繊はいつの間にか工繊で固まってました。
しかし、ただ1人、陽気なノリについていってる、否、むしろ扇動している奴がいてそれこそが最初遅刻していた彼でした。声量が今まで会ったやつの中でケタ違いに大きくそして低い渋い声を放ち、応援も400m走ってる時にも何を言ってるのかはっきり分かるくらい大きかったです。
レセプションでも大きな声でしかも僕より1つ上のまだ未成年のシラフなのに酔っ払い相手にとことん絡んだり盛り上がったりしてるのを見て、いつの間にか嫌いという感情が吹き飛び、チームとしてこういう人がいるのはありがたいなと思い始めたきっかけでもありました。
とはいえ、そいつは陸上にはほとんど参加していなかったため、主将が400の人であり、同期で唯一のデザ建で且つマネージャーさんもデザ建だったこともあり話す機会が多い僕が同期の中心になっていたかなと思います。

第三章 センス

それに比べ、勉強はむしろ逆で存在感は皆無に近かったかなと思います。大体二人組を作れとなると余ってしまい先生と組むか、単位取りこぼしたであろう4回生の人と組むことがほとんどでした。
またデザインの課題が5月から始まり、最初は高校の時にみんなに絵を褒められていたので自信がありました。
出来た作品を発表したのですが周りの作品の出来の質の高さに圧倒されました。シンプルに上手なのはもちろん、どうやって生きたらそんな発想が生まれるんだと思うくらい柔軟で美しい作品が多く、これらは学んで出来るものではないとセンスの問題だと思い、こういう部分は
一生追いつけないな…デザインで僕は食っていけないなと気付き諦めました。
実際に一切自分には投票が無く、自分の発想力の無さなどに劣等感に苛まれ、さらに皆絵がうまく、自分が絵がうまいと思ってたのは白陵の中だけだったんだ、そりゃ図画を試験にやるくらいだから上手に決まってるよなと落ち込みもう絵を趣味って言うのやめようと思いました。

1回の後期でもうデザインと建築は分かれるのですが入った当初こそデザイン一択にしていたのですが、このようにデザインで打ちひしがれてしまったのでまだ知識さえ身につけば仕事ができる建築をやろうかなと思い、建築に進むことにしました。

大学からでも高校時代の人と唯一やりとりする女子がいてそれがデコの彼女でした。卒業アルバムでラブアピールをしてからLINEがつながり、3月あたりからずっとLINEをしてまるで本当の彼女になったかの気分でした。
彼女はコナンが好きでそして僕はB'zが好きでコナンの映画がB'zが主題歌になったのが決まり、双方のメリットが合致したので人生で初めて女子と、しかも二人きりで遊ぶことになりました。

緊張というよりかは彼女はおてんば娘であったので終始振り回されているといった感じでしたが、なにぶん初めてだったので悪い気はしませんでした。帰り際に、彼女から卒業式ん時さ、もし告白してもらったらOKしてたのになと言われ、実は卒業前に私が好きだと言った彼と付き合ってたんだけどその時上手くいかんくて別れてたからさ、チャンスだったんだよとすごい上から物を言われましたことに逆に付き合いたいと言わなくて良かったなと少し思いました。
僕はそこまで好きって訳でもなかったのでそれは惜しいことをしたと空返事をしつつ、ではお互いまた頑張りましょうと分かれました。

それからも連絡のやり取りをしていましたが、同じ学科で可愛くて優しい人を見つけ、その人を狙おうと思いデコの彼女に恋の相談もしていました。応援してるね、とLINEをもらい相手もそのうち恋の邪魔をしてはいけないという良心から徐々に連絡も取らなくなっていました。

その好きになったという女の子とは一度だけ食堂でしゃべり、花火大会に誘いましたがそのLINEが2日帰って来ず、忘れた頃にごめん、行けないと返され、僕は散々自分の恋愛で学んできたのでこれが脈なしだと分かり手を引きました。

第五章 夏休み

陸上はそれからというものの大躍進を続け出たら出るだけベストを叩き起こしとうとう50秒台にまで上がっていきました。工繊で同じ兵庫出身の人とは課題を手伝ってもらうくらいの仲になり、暇やから忙しそうやし手伝ってあげるわ!彼は僕より器用に手伝うと、いやいや奢りとかええんよ、まだお金もないんやろ、とやるだけやって帰ってゆきその献身さには感謝しかありませんでした。僕はそれでも課題が終わらず徹夜の日もあったりしました。また、自動車学校に通い始めそれらの両立も難航を極めました。

白陵時代は校則が厳しくもちろん、茶髪も禁止でした。禁止だったからこそ、いつかやってみたいという思いが溢れ出し、また外見を変えるともしかして中身も明るくなるのでは??と思い、かなり明るめな金よりの茶色に染めました。
まあ、結論から言うと中身は全く変わらず陰キャのままでさらに全然似合っていませんでした。唯一いっしょに自動車学校に通ってた1つ上の府大のマネージャーさんには似合ってるやんと言われましたが、その他全員には違和感しかないと言われました。

夏休みになってからは週に5日で部活、そしてほぼ毎日自動車学校に通っていました。自動車学校の技能に受かってからバイトに通おうかなと決めていました。自動車学校でも要領の悪さが目立ち、車の運転はマルチタスクなので1つのことしか出来ず終始あたふたし、仮免も一度落とされました。しかし、何とか大幅に時間はかかりましたが技能までは受かりました。最後に教官から君には合格出したけど運転に向いてないよと言われました。なら不合格にすればいいのに(笑)

陸上では初めて合宿をやりました。中高は2部練という形を3日続け最後にプールで訓練する(白陵はプールの授業がないため、唯一女子の水着を見れる機会だった)という合宿紛いのことはやっていましたが、寝泊まりをするといった本格的な合宿は初めてでした。
今まで調子良かった僕でしたが合宿中に軽い肉離れを起こし、途中で断念しました。しかしその2日後には200mを24秒ペースで走っていました。
合宿のゲストハウスとしてお世話してくれるお母さんは優しくアレルギーには逐一優しい対応をしてくれました。人柄も良くケガ中も親身になってくださり仲良くなりました。また、ここで同期などと仲良くなっていき、高校編①でも書いた乳首がアトピーの話などもし絆が深まったようにも思えます。

そして、このタイミングで僕はTwitterをしていることをカミングアウトしました。くみこという完全に女性になりすましたアカウントと、もう一つ実際の名前でひたすら高2で書いていた闇の名言集をつぶやくだけの2つのアカウントを作りました。
もちろん本名を書いてる方にフォローされていくので次第にそれを高校用とし、くみこを仲の良い人だけに教え、陸上用にして分けていきました。

バイトを何にするか非常に迷っていました。実は家庭教師になろうとしてメールを送ったのですが2回連続で落とされ路頭に迷っていました。母親に何のバイトが良いか聞くと、まあコンビニとか色々学べるしやってみたら?と言われたので調べてみました。すると名前も知らないコンビニが引っかかり、家と学校でちょうど正三角形を結べるような、知り合いにもバレなさそうな良い位置にあったのでそこで受けることにしました。

面接時には茶髪、半ズボン、クロックスで行くとその店長からお前次その服装と髪色で行くと辞めさせるぞと脅された後(当たり前)、土日のどっちかとあと盆と正月のどっちか入れるなら雇ってもええぞと言われ、じゃー土曜と正月は入ります!ということで9月からコンビニで働くことになりました。

初日に黒髪に戻しバイトを始めましたがやはり要領の悪さで物覚えも悪く、また声出しも小さく注意される毎日でした。
またレジでは色んなお客さんと目を合わせたり、お釣りを渡すのが上手くいかず手と手が触れ合うことが多かったのです。
それは男性女性変わらずそうだったので逆に今まで苦手だったやりとりが段々と女性に対する抵抗がなくなり、ようやく女性にも目を合わせながら話すことができるようになっていきました。
尚、まだトーク力はなかったのでいわゆる普通の女の子とは仲良くすることはまだできませんでした。

また、高校と大学で違ったのは呼び名です。白陵では女性に対して相手のことを基本名字の呼び捨てで呼んでいました。しかし、大学になってからは当たり前のように周りが下の名前(+ちゃんorさんor呼び捨て)で呼んでいて、また僕も今まであだ名が名字由来が多かった(5人くらいは名前で呼ばれていた)が大学からは下の名前で呼ばれていたので…え、下の名前で呼ぶのは付き合ってからか意識している人にしか言わないものだと思ってた僕の価値観は180度変わりそういったことや、仲良くなった友達の高校時代の話を聞く機会も増え、自分の高校の時って普通じゃなかったんや、ってか俺がひねくれていたのかとようやく自分がおかしかったんだということに気付いていきました。

第六章 キャパ=2

陸上は肉離れ後のしかも滋賀の試合で自転車で京都の山を越えて滋賀に行くという無茶ぶりをかましましたが山登りがアップとなり50.66のベストを出しました。
しかし、色々と無理がたたり、次の試合で100を出場したのですがスタートでまた肉離れしさすがに休もうかと思いました。また、アスファルトの練習は負荷が多く中1以来の土踏まずの痛み、そして腰も痛め冬の間はしばらく筋トレだけの日々になっていきました。

後期では建築となり、最初は図面をひたすら引く練習でした。ペン先が度々壊れ、インクも汗も滲む苦しい課題でしたが、ウォークマンでB'zを聞きながらやっていると楽に徹夜できました。

座学では学籍番号が隣の女子と二人組になることが多くなり次第に仲良くなっていきました。その女の子は基本真面目で徹夜せずコツコツやっていましたが提出前には彼女や他の人達も集まり一緒に課題をやっていましたので段々と濃密な話もするようになりました。
雨の日はお互い電車だったので2人で帰ることもあり、プライベートでもLINEを取るくらいの仲になりました。
向こうから誘われたりし数回デートした後にUSJに行くことになりました。そしてそこで告白しようと思ったのですが芋り散らしたので園内ではとうとう言えず、なんと混み合う電車の中で告白したのです(昔と変わらん…!!)
当然こんなとこで言わないでよと言われましたがでも、こちらこそお願いしますと言われとうとう高校から願っていた付き合うことができたのです。
その女性は一浪の同期なので1つ年上で可愛らしい声と容姿とは裏腹にしっかりしていて自立した性格をしていました。恋愛においてあまり依存したくないという考えは一致していた(僕はそう思っていた)ので上手く付き合えたのだと思います。

恋愛面もそうでしたが、同じデザ建のマネージャーさんに課題を手伝ってもらったり、バレンタインには義理ではありましたが19年生きて『初めて』女の子からもらいました。
特に府大の同期のマネージャーの女子からは入浴剤、工繊の同期の女子には芋けんぴと僕だけ特別アレルギーを配慮したものを戴き、これが普通の幸せなのかと思ったくらいです。このようにうまくいったことが多くありました。

それとは反対に陸上ではうまくいかないことが多かったです。前述のケガもありますが、僕と仲良くしていた車好きの彼が車が好きすぎるあまり両立できないということで辞めたことや、また幹部交代で今まで真面目に頑張っていた主将が変わり、1つ上の代が幹部になりました。工繊では3人しかおらず1人はそもそも部活には行かない、1人は陸上に真摯ではなくモチベにムラがある人で、残り1人はクールで要領は良いが朝の練習は起きれないため行かない人と適任は正直いませんでしたが消去法で最後の朝来ない先輩が選ばれました。

今までの主将が絶対に寝坊遅刻しない人格者だったのが余計に部活の今までの雰囲気を壊す結果となり、デザ建のマネージャーさんもこのタイミングで忙しくなり辞めてゆき、誰も注意できる人がおらずものすごい緩い部活になっていて僕たち同期のモチベーションはものすごく下がってしまいました。しかし、府大は1つ上の世代が全盛期であったためそれが救いではありました。

また建築でも冬から実際に自分で形を考えて設計することになり、結局はデザインじゃなくても発想力を必要としていて、やはり発想力とは興味があるものだからこそ生まれる訳で建築に対してはまだまだ受け身であったため面白みのない物になってしまったり、模型を作る器用さが余りにもなく、まずカッターでまっすぐ切れないという致命的な部分があったたため、あれ…もしかして…建築を選んだの間違えたかな…と思いながらも別に他の分野でも結局同じことを考えていただろう…僕に適職なんて無いんやし、今は流れる川の流れに乗っていくのが一番近道だと思い、とりあえずちゃんと取り組もうとそう決めました。

何かがうまくいくと何かがダメになる。大学では特にそうで自分のキャパは2が限界だなとそう思ったのです。例えば当時は部活、建築、バイト、恋愛がありました。1つの最大量をそれぞれ1とすると4つ全て最大で回せると4になるわけです。しかし僕には2しか割り振りが出来ませんでした。僕はなので当時は0.75 0.4 0.4 0.45 とどれも中途半端に振っていました。次第にバイトを減らし部活を上げていきました。なので両立してたというと響きは良いですが当時はどれも上手くいってないような、強いていうなら恋愛は上手くいっているのかなとそう思えたのです。

大学1回生の総括として、やっと「普通」というものを客観的に認識でき、それをようやく矯正できた1年でした。かと言って心の闇は晴れることはできず、生きる意味をまだ見つけられずにいました。
大学2回生…これが人生にとって大きなターニングポイントになるとは当時はまだ思ってもいませんでした…。