自分の「普通」

普通に生きなさい。そこは普通にしてくれればいいよ…などなど日常に、広くそして曖昧に用いられてる普通という言葉。
この普通というのは今まで生きてきた自分の価値尺度に過ぎず、それを相手に押し付けるのは良くないと僕は思っている。

物心ついたばかりの時は周りに見える世界が全てだと思っていた。それゆえ価値観もその中でしか形成されなかった。
しかし成長を重ねるうちに新しい環境や自分の生きている環境では知り得ない情報を見聞きすることで自分がどの立場にいるかどうかを理解できると思っていた。
が、やはり身をもって経験しないと価値尺度そのものはあんまり変化しないということに気がついた。脳に響くまでもう一つの価値観をぶつけられないと見過ごしてしまうようだ。

文章1つでは正直脳を震わすほどの衝撃を与えることはほぼほぼ不可能だろう。文章を読むにあたっても自分の環境フィルター越しに解読してしまうからだ。分からないものは分からないまま無責任な状態でいられる(読める)というのもある。

それを前提の上で僕の「普通」がどのように形成し揺れ動いたのかを話したい。
話したくなった理由は2つあって、最近より目まぐるしく価値観が変化してそれこそ何が普通なのか分からなくなってきているという事と読んでいるみなさんにそれを言語化して伝えたいからである。

最後にも話すと思うが総じて見れば僕は割と恵まれた環境にいたと思っている。なのでまだこの時点の僕は俗に言う「底辺」を知らない。すごい上にいる価値観もあんまり知らない。ということもあり文章自体にも一種のバイアスが無意識のうちに出ているかもしれないのでご了承いただきたい。



1.【0-7歳】「普通」ではなかった幼少期

平凡な家庭、都会でも田舎でもない住宅街に誕生した僕。
本当なら平々凡々に過ごすことが出来るはずだったが食物アレルギーということが判明してしまう。
症状は思ったより酷く特に母親には大変気を遣われながら育てられたことだろう。

また僕は昔あまりにも喋らない子だったので親は自閉症なのではと心配した。

好きな趣味の話ならできるがその他の日常会話や今思っている気持ちなどを言葉に表現することが出来ずしょっちゅうパニックになり泣き出す子だったのである。

言語能力だけでなく学習能力も一般的な子どもより遅れていたことから発達障害者が集まる施設で過ごすこととなる。
正直事実だけを覚えていて記憶はほぼ無い。物心ついたのも遅かったことが原因だろうか。
確かに小学2年生までは学校に通いながら施設に行ってたが、この頃から突然自分の伝えたいことを言葉で表現できるようになり、自閉症と疑われていたことが嘘のように自我が確立した。

確立してからもしばらく施設の人達と僕は過ごしていたことや、アレルギー+身体が弱いということもあり病院に通うアレルギー界隈があり、その3つの異なる環境があったこと、そして自分は普通とは違う人間だということに気付けたのは今の自分の人とは違うと考えるルーツになっているかもしれない。


2.【8-12歳】 甘いも酸いも味わった小学校時代

僕の通ってた小学校は今思えばかなり平和で恵まれた層が多かったと言える。
とある政令指定都市の西部、海沿いに東西に沿線が伸びておりその海が見えるような学校だった。沿線に近ければ近いほど別荘のような戸建てや某大企業の宿舎など金銭面が豊かで離れれば離れるほどさびれた団地など貧しい傾向にあり、若干ではあるが縮図のようなものが存在した。

中学の行き先もその貧富差がはっきりしており海沿いの中学校は豊かな層が多いものの、山側の中学校は他の不良が多いと言われる更に沿線から離れた小学校からも集まるので一説にはその中学校の学区で土地の値段が変わると言われるくらいに学力や治安に差があった。

僕の実家はその学力が低い山側の中学校になる貧しい側の場所にあった。
とはいえ父親はサラリーマン、母親は専業主婦と小学校の中では平均くらいだったが実際は恵まれてたと言えるだろう。
確かに買いたいものがあっても渋られて我慢していたもののちゃんと誕生日とクリスマスの制度はあったし、近場ではあるが旅行に出かけていたりもしたので裕福に育てられていた。

小4の頃にはその治安の悪い中学校は合わない、詳しく言えば内申点の都合と近所はワルが多く僕が勉強しない方向に染まってしまうと両親が判断したため賢い私立中学に受験することにした。

小4から同じ小学校のメンツが通っている塾に行き始めたがそこは上位層が多く、その中では僕は上の下くらいだった。
この頃から学力などでもはっきり貧富の差がついていた。
僕の近所では中学生や高校生が無免許でバイクを乗り回したり、シンナーを吸ったりしていたり万引きが横行していた。
しかし、それは聞いた話で実際はタバコを吸っていたくらいしか見ていない。もしかしたら僕もそっち側に流れていたのかもしれないと思うとゾッとする。

私立進学校を目指すような人がマイノリティではあるものの少なくはなく僕よりも賢い中学に行く人も何人かいた。
また私立に行く人はどちらかというと賢さにムラがある人で全体的に賢い優等生タイプは公立でそのまま国立大学を目指すというイメージがあった。先ほど僕は学力を上の下と表現したが副教科など合わせると丁度平均くらいだった。
なので自分を賢い側の人間だということを理解していたが決して自分は賢い人間だとは思わなかった。

本当に賢くない人は「ず」と「づ」や「お」と「を」を使い分けれないだとか漢字書けない読めない、計算出来ない人が一定数いた。僕にはそれを当時の脳では理解出来なかった。
そして僕はそのレベルを底辺だと考えていた。

小5からは中学受験を目指す本格的な塾に入る。そこでは本当に賢く、そしてかなり裕福な家庭がほとんどだった。

賢くない人は下のクラスに落とされ淘汰されるという残忍な世界をこの頃から知るようになり賢い人が偉いという価値観をまざまざと叩きこまれた。

小5くらいからその貧富の差のようなものを理解出来るようになり保護者のマウント取り合戦のような汚い世界も同時に知ることとなる。また歴史や道徳の授業を受ける度に教育とは洗脳だと考えるようにもなる。

父親は単身赴任となり母親の負担が大きくなった。とはいえ、その分ケンカは少なくなったので良い部分もあった。そこから父親の病気などがあり僕の家庭は一気に貧しくなった。
母親はパートを始めるようになり、小6の頃は教育費を払うのがやっとの生活で給食をたらふくおかわりすることで腹をしのいでいた時期もあった。

受験を続ける、そして給食費を払えるぐらいにはお金の余裕はあったとはいえ、確実に受験する中では一番貧しい人間だなと思っていた。
みんなはのうのうと受験しているが、僕はそういった経済面から一度辞めることさえ考えた。そんなギリギリの状態から這い上がってやるという精神が自分を大きく支えた。

この時点で既に受験する彼らにとっての普通は僕にとっての普通とは違っていた。
また、中学受験をしない人は小学生から必死に勉強することなく遊んでいたことだろう。受験をすることは普通ではないと思っていただろう。

僕の小学校では全員給食費は払えていたし全員修学旅行には行けていた。だからそれすら払えない層がいることなんて僕は知ることなく普通を普通と思い込んだまま生きていた。

それはそうだ、まだ子どもは視野が広くないからだ。測るものさしが通っている小学校ぐらいしかないからである。
とはいえ、そのものさしから言えば僕は普通でない道を通り、様々な環境に突っ込んではついに私立中学に合格することとなった。



3.【12-18歳】 恐ろしく恵まれていた環境

中高一貫の私立進学校は数日経てすぐにこれまでいた環境とは違うことを判断できた。
これまで通ってた中学受験の塾の氷山の一角をそのまま全体に押し込んだ感じ、あるいはそれ以上だった。
しかし、彼らの小学校時代の環境は劣悪な所だったと聞いたりし、自分が通ってた小学校は何やかんや平和だったことをここで知ることにもなる。

そんな中、完全に金銭感覚が異なっており、お小遣いが月3~5万円という人もいたりした。(僕は0円)
僕の家庭の経済面はこの環境では下の下、良くても下の中、また僕は要領が悪いせいもあり序盤で授業が追いつかなくなり勉強面も良くて下の上、大体下の中あたりで収まってしまう。
また身体面でも痩せて背も低く陸上部に入ったもののいつも成績は最下位で下の下だった。

ここで僕は何にも取り柄のない劣等感たっぷり人間がこの狭い環境の中で出来上がってしまったのだ。
なにぶんパソコンやスマホも無かったので情報を得られることはなく、この中学の中の狭い狭い世界の中でジワジワ自分を見失うことになり、世間との普通が徐々にズレていることにも気付かずに過ごしてしまう。

普通で無いことに気付いたのは中3、成績が下の下~下の中をうろちょろしていた僕に耐えかねず両親はマンツーマンの塾に放り込んだのだ。
そこではいわゆる本来なら行くはずだったあの治安の悪い中学生もいたりした。どうやら行く塾を間違えたぐらい周りのレベルは低かった。
そこで張り出された紙に僕の高校の偏差値は73であることを知る。

中学受験時は中学受験する人しか偏差値帯にいないので60ぐらいの偏差値しかなかったが、高校は色んな人が受けるので相対的にものすごく高くなっていたのだ。
そこで僕は、あれ?バカになったわけじゃないのか…と初めて気付くのである。それくらい狭い檻に閉じ込められると自分の立ち位置が分からなくなるのだ。
その塾も高校になった時に辞めて本格的に自分の立ち位置がどのくらいなのか分からなくなってしまう。

しめて6年間この牢獄にいたわけだがここに通ってた人誰もが口を揃えてあの環境は異質だったと話す。もちろん、それを知るのは大学などに出てからで通っている最中はこの世界が基準だと思って生きていた。
確かに部活の試合でも他の学校と比べ自分達は異質だと「見られる」経験はあった。しかし、通っていた学校が異質過ぎたからであろうか、あるいは周りを見る余裕が無かったからであろうか、自分の脳を揺らすほどの価値観を変える出来事は起こらなかった。

大京大、医学部に行くのが当たり前、慶應早稲田は滑り止め、地方国公立、関関同立は底辺が行く所だと何も疑わずに思っていた。
産近甲龍というワードは大学で初めて知った。
だから京都工芸繊維大学というものは賢い所にいけなかった末路であると考えていた。
僕はほとんどの人が大学に行くと思っていたのでそんな中偏差値が60を切るっていうのは15も偏差値を下げたことになるので色んな人達に追い抜かれたんだなと痛感し、しかもそれでもD判定続きだったので少しショックだった。
しかし、京都にいる親族はすごい所に行けたねと褒めてくれた。その意味が皮肉に僕は聞こえてあまり嬉しくなかった。



4.【18-22歳】 客観的に自分を見れるようになる

僕は大学生となり、今まで育った土地から離れることで中高時代がどれほど異質だったかを知ることとなる。

そしておばあちゃんの家に住むこととなり、親とのあまりにもギャップに驚いた。まず理不尽に怒られることが無いのだ。
親族にはその環境でよく生きてこれたなと言われた。
単純な話、学校よりも当たり前に家庭というのは存在し、まずは家庭を基準に考えてしまうためそこが異質であるということを疑いもしなかったのである。
言われて見ればおかしいよな?と思うことは沢山あったがそんなものかと割り切っていた。

会う人会う人の環境はどれも新鮮で段々と自分がズレていることに気付いた。
全員が全員挫折経験を持ってるわけじゃないんだ…。なるほど、こういう立場だからこその苦しみがあるんだね…。

総じて得られた価値観は思ったより人間は大したことないということ。そして、もっとしんどい人間、凄い人間もまた沢山いるということ。僕が見ていた世界が余りにも狭いことを知らされたのだった。

京都工芸繊維大学は良くも悪くも自分の立ち位置が平均ちょっと下という感じがした。話が通じる人が多く全体的に居心地は良かった。

バイトはコンビニを選んだ。融通が効くというのと色んな人間を見れるというのもまた一つだった。

僕はそれまで人間には改心できる余地があると思っていた。しかし、クレーマーと接すると何を話しても話は通じなかった。彼らはストレス発散でクレームをしているので理屈や目的などありはしないのだ。
また生活保護層の人達と触れ合ったこともあるがそこの胸糞悪さや万引き犯を捕まえても誉められるどころかこういうのは見てみぬ振りをした方が面倒事にならずに済むという不条理さを知り、ある種の人間に対する諦めを覚えた。

また僕は同好会にも入った。そこでもピンキリではあったため色んな価値観を吸収することができた。
また幹部層はみな京大で特に恋愛面に関する普通を大きく塗り替えられた。

京都工芸繊維大学と「普通」はある意味密着に関係していて、国公立の割に圧倒的に知名度が無い普通では選ばない大学である。

また大学の難易度も中の上(上の下?)あたりだからか同じような層はこの大学をよく知っているがアホ過ぎると京都に住んでいても知らないし、賢すぎてもまた知らないという相手のステータスを測れる大学なのである。

今だけでも上・中・下がきっぱり分かれたけどそれらの普通の基準は大きく違っているだろう。

僕はそういった基準やステータスに縛られず生きてたい派なのだが避けては通れないイベントが存在する。
1つは合コンなどの類だ。学生ならば必ず話すことになる。先ほど延べたように自分の大学を話すことで相手がどういった人間かすぐ分かるのである。
大抵京都工芸繊維大学だと話すと専門学校だと勘違いされる。すると大学名を聞いた瞬間知らない人は見下す傾向にある。しかもそういった人の大学は決まって産近甲龍以下なのである。
賢すぎて知らない人の場合は大学一つで急に態度変えて見下すといったことはあんまりない。
僕は別に自分よりも偏差値が低いからって嫌うことは絶対にない。このようにステータス1つ1つに一喜一憂する人と関わりたくないという話だ。

もう1つは就活だ。これの場合は如実に見られてしまう。僕の場合、関西の建築界隈だと京都工芸繊維大学は印篭かと思うかくらい良い方向に力を発揮し、エリートのような扱いを受ける。
しかし、それ以外の学科だったり関東エリアだったりすると無名大学扱いされ選考に落とされると聞いた。これはまさしく合コンのそれだった。

最終的には中身を見られるのかもしれないがそれまでにはこういった表面しか見られないのだと納得と失望の2つの感情が混ざった。

大学卒業する頃にはおおよその価値観を知ることができたと思っていた。しかし、それはとんでもなく甘かった。



5.【社会人~】 またも揺れ動く価値観

僕はとある建築会社に就職した。設計、施工管理、事務職そして他のグループ会社、関西だけだとざっと100名はいたと思う。

その中で僕は大学の偏差値だけで言えば上の中あたりに属し平均は産近甲龍ちょい下ぐらいである。しかも大体は設計職、一部の事務が上を占めており、施工管理だけならばエリートと呼ばれても差し支えなかった。

でも僕自身は全くそういう考えを持っていなかった。
工繊では建築をやっていたものの半ば腐っていて到底胸を張って建築をやってきたとは言えない劣等生である。
それよりもよほどどんな大学であれ真面目にやってきたりフィールドワークなど積んできた人の方がよほど戦力になる。

それは現場配属となって懸念材料は的中し、元来手先が不器用な僕はなかなか器用に仕事をこなせることが出来ず、コミュニケーション能力も不足しているため早々から遅れを取っていた。

そう、ここでは学力というよりどれだけ人と会話し仲良くなれるか、要領良くこなせるかが大事であり、僕が逃げてきたような事柄であった。

また、同じ所員だけでなくむしろ職人さんと関わる機会がとても多い。
職人さんは僕が今まで当てはめていた「普通」には到底属さないような人達でタバコは当然として入れ墨が入っていたり一歩間違えれば反社側にいてもおかしくといった人生を送っている。それは僕が経験したことのない界隈のものだった。 

また今まではこれらの職人さん達を軽蔑する傾向にあった。学歴が全てとは言わないが相関関係は存在すると思ったからだ。事実彼らは恐らく1人として大学を卒業している人はいない。勉強も真面目にやって来なかっただろう。彼らに息子がいるならば継ぐことを基本前提として生きることになるだろう。(実際に親子で働く人達が多い) 

それを僕は努力不足、やることを尽くすまでは人には誰しも可能性があるとは思っている。
「大学に行きたくても行けない人間」は少なからず存在して、それらに同情はすることはあっても「ただ単に行けない人間」には努力不足あるいは能力不足だろうと気にも留めていなかった。

しかし、いわゆる職人さんのような人達はスタートから大学を目指すような状態ではなく、きっと周りも同じような人間だったに違いない。つまり、彼らにとっての普通は高卒(中卒)で働くことであり、大学を目指すことは時間を持て余している裕福な人達の享楽に思えたのかもしれない。大学に行けないというより、はなから目指すという思考が存在していないのだ。僕はその価値観に最近になって恥ずかしながら気付かされたのだ。

僕の今の現場には延べ100人以上職人さんがいるが僕より学歴という面で賢い人は正直いないだろう。
しかし彼らは僕よりもこの現場や工事についての知識は知っている。そして彼らには揺るがない信念を持っているように感じた。
僕は大学になってから人の顔を見ただけでその人がどういう深い人生を経験してきたか何となくだが分かる力を得た。

目が光っていて、据わっている。そして格好いい。所員も確かにそれを感じるが職人さんの方がその凄さを感じた。これは学歴とは全く関係ない特性だということを理解した。

僕はそれなりに紆余曲折ある人生を送ったので周りからは芯があると言われるが実際は彼らと比べたらまだまだへなちょこである。

しかし、その凄みという要素があるからといって話が合うかと言えば別の話である。やはり学歴というのは相関関係はきちんとあり、同期と飲みに行っても話が合わないことがしばしばある。

少し難しい表現、慣用句やことわざ、四字熟語、など今までは当たり前のように話していたことが伝わらないことがよくある。それを使うたびに賢いアピールをされてると勘違いされるのだ。全くその気は無いのだがまた言われるのも億劫なので噛み砕いた表現を使わざるを得なくなる。それが僕にとっては気を遣うし、相手もまたこんな僕に気を遣っている可能性だってある。

これはまた偏見のそれだが何やかんや上手くいっている人生の方達が多いなと思った。基本受け身で誰かがやってくれる。そして自分に降りかかると逃げるように言い訳するようにスルーする。案外職人さんよりもこのぐらいの層が一番薄っぺらい人間が多いのだなと思わされた瞬間である。

嫌な表現を借りるならば下の層に対しこれほど密接に関わった機会が今まで無かった。そこから気付いた発見は余りに重く自分の価値観が揺らぎ、揺らぎすぎて何が正しいのか分からなくなった。

僕には現在彼女がいる。彼女とは家族絡みで付き合うことが多い。少しずつではあるが彼女(の家族)との価値観は違うなと認識するようになった。
人格などの面ではしっくりくるなと思うくらい居心地が良く、無償の愛というものを教えて貰ったのが彼女からだった。今まで愛は等価交換だと思っていた。何かを成し遂げて初めて自分の価値がある。
逆を言えば何もない自分には愛情をもらう価値などないと本気で思っていたので、おばあちゃんからお小遣いなど貰っていた時は僕は何もしていないからと断っていた。けれど愛というものはそういうものではなくて理由や意味なんてないものだと教えてくれた。そのような価値観は目から鱗で未だに申し訳なさが残ることもある。

問題は金銭面で彼女のお母さんは(ボンボン=甘く育てるイメージがあるので)厳しく育てたとおっしゃられてその言葉は本当で彼女はほんとにしっかりした人であることには変わりない。

ただ貧しい側にもきちんと立てるような、河原でもカップラーメンを食べれるような子と表現していた。彼女や彼女のお母さんが優しい人であることは全く否定しない。

というより、その表現によって彼女達にとっての貧しいイメージはそのレベルなのかと裕福な家庭に育ってきたんだなと認識した。多分彼女達は底を知らないのだろう。僕が話したところで変わる訳でもないし、実際に頭にゴツンとなるくらいの体験をしないと伝わらないだろう。

ただ価値観を共有する必要はそもそもないのだ。彼女達の価値観を見定め、自分がそれに合わせていけば何も問題はない。合わせるのが苦しくなった時に自分の価値観について話せばいいだけの話だ。

彼女よりも裕福な人は大勢いるし彼女はそういう中で生きてきたから自分はそうでもないと感じているかもしれないが僕にとっては全くそう思えなくて、密接に関わってきたからこそ気付く価値観の差が僕には感じ取れた。

僕は激しく上下に「普通」が揺さぶられている。自分とは全然違う価値観に。
それ故に昔からの友達と会うことがどれだけ自分にとって安寧であるか、僕は間違っていないんだと僕と似た価値観の他者を通じてそれを確認する。お金よりもよほど心の支えとなっている。



6.まとめ

普通とはあくまで主観でしかない。そしてその主観ですら僕の人生を見てもらったら分かるように極めてブレブレである。
千差万別の形ない尺度。それを二文字の熟語に無理やり当てはめただけの結果である。

客観的な「普通」は日々更新されてゆく。明日にはその答えも変わっているだろう。常に敏感に新しいものを取り入れないと置いていかれるだろう。
普通というものは自分にとって都合の良い言葉であるだけで相手には当てはまらない。あんまり伝わることないし、使用している人を見るとあまり賢くない人なんだなと僕は思う。

僕もまたこうして「普通」という価値観に縛られた人間の1人である。
環境が違えば、時代が違えば、国が違えば…そんな普通はもろともに消滅する。
自分が普通、とある事象に対しても普通、当たり前だと思わずにきちんと向き合って判断できる人間になっていくつもりである。

長文失礼いたしました。読んでくれたみなさん、ありがとうございます。