自分の半生 ~大学編④-3

卒論には随分手こずりました。まあ、周りと比べれば大したことは全然ないんですがひたすらゴールの見えないレースを走っていた感覚でした。そんな話をゆっくり書いていこうかなと思います。

第六章 故郷

卒論はゼミの本読みをする中で指針を決めていき、前期でどのようなことをするのか決め夏休みから本格的な調査をするといったものでした。

僕は基本的には近代都市の分野の研究室ということもあり、自分の育った町でもある舞子という海に面した住宅形成の歴史を調べようと思いました。
僕は故郷の海が好きでした。それと同時に悲しみを置いてきた町でもあります。
僕は高校の頃、つらい時は時間がない中でも帰り道には海に寄っては途方に暮れていたりしていました。海には確かに僕の渇いた心を包んでくれる器の大きさがありました。

それに気付いたのは大学になってからで京都には海はなく、代わりに川がありました。一度つらくなった時に河川敷に寄ったことがあります。しかし、心は癒えることはありませんでした。川は絶えず海へ向かって流れています。僕には忙しないなと思ったと同時に僕の意見を聞いてくれていないなと感じたのです。

そこからでしょうか、より僕は海を欲するようになっていました。帰る度に辛いことが思い出されてしんどくはなるものの、確かに迎えいれてくれる場所でもありました。
なので僕と同じようにこの海の影響で町が変化したのではないかと思ったのです。そして海を利用した建築はホテルが最たる例であったのでこの町のホテルについての調査を始めました。
しかし、ホテルに関しての先行研究は乏しく、また建築の論文は大抵日本語で読めるので他の理系と比べたら大幅に楽ではありましたが、大体の内容は薄っぺらく、そして有料が多いのであまり参考になりませんでした。

また舞子自体のホテルの歴史も古いわけじゃなく、扱ったとして論文になる程度のクオリティにはならず、結論の着地点もどうすればいいのか分からなかったので一度舞子について色々な資料を集めてからどう切り込んでいくかを考えようとしました。
その中でもホテルの歴史をもっと遡るとこの土地は元々有栖川宮家、つまり皇族の別荘だということが分かり、その部分を中心に書けば深く書けそうだなと思い、夏休みでは地元の図書館に籠もり
資料集めに没頭しました。


卒業には正直手こずりました。僕のゼミは何も束縛がないという点ではメリットですが裏を返すと全てにおいて自立を求められました。相談をしてもまず調べて資料がないと何も言えないよねとなり、何せ図書館をあまり使ったことない人でしたのでどうやって取っついて行けばいいか分からず最初は苦労しました。
そして、京都と地元の往復代が馬鹿にならず、また図書館の本も地元に「住んで」いないと借りられず逐一行っては印刷し、の繰り返しで印刷代もそうですが、読み込むことが出来ないのでコスパもあまり良くありませんでした。なのでバイトの回数も減り器用に生きなければお金が底を尽きかねない状況でした。
僕はこの時、夏休みから始めているから何とかなるだろうと思いました。それが取り返しのつかない事態へと発展していくのでした。

当然部活の頻度も大幅に減らし2週に1度ほどとなりました。それでも行っていたのは部活が心の故郷だったからです。
人数こそ少なかったものの早い段階で幹部を交代し、立候補で唯一の1回生の彼が2回生を差し置いて主将になったのはこの陸上部を変えていきたいと本気で思っていたからでしょうか、それからの学祭などでは皆で力を合わせて積極的な動きをしている姿勢を見て後の陸上部の未来は明るいなと思いました。
そしてもう僕がいなくても大丈夫だなとそう思ったのです。

第七章 いつかのNF

B'z同好会は結局ボスなど社会人になってからも定期的に来てくれていたため何やかんや勢いは盛んなままではありました。
B'z同好会は色んな活動しています。カラオケ、バンドによるライブをしたり、人生ゲーム、テスト、バーベキュー、飲み会、旅行などのB'zにゆかりを持たせたイベント、そしてNFがありました。

僕は主にイベントの中でも英語のセンター試験形式を模したテストの作問、新たなイベントである歌詞解釈のプレゼン作成、会場の手配などをしていました。
また後輩が優秀で段取りも良いため仕事量も少なく済み色々支えられていました。そのおかげでテストのクオリティは高く絶賛だったので大変満足いくものとなりました。

この最後に挙げたNFは会長になった師匠の仕事でもありました。NFでは京大のグラウンドに設置された舞台にて大音量でB'zをかけ観客を巻き込んで舞台上で踊り暴れるといったカオスなものでした。
僕は卒業生ということで1曲ソロを用意してくれました。僕はみんなが暴れないようなバラード曲にしようかと思いました。 
僕がメインなものは二度とないと思ったので大学同期や彼女や家族なども誘いました。

彼女は自身の学祭と被って行けませんでしたが、宴会担当と400専門の同期が来てくれると言ってくれたので宴会担当の彼をソロの時壇上に上げ「いつかのメリークリスマスで腕立て伏せ」をしようということにしたのです。
本番それは見事に成功し、B'z同好会員や周りの観客を沸かせました。

NFで初めてかなり前の会長でもあるボスの師匠の大ボスと会うことができました。
彼もまた人を惹きつけるカリスマ性があり、誰とでもすぐ人の心を開かせる力があり、初対面の女子とも楽しく会話させているのを見てさすがボスの師匠だなと思いました。
彼はメガバンクに就職していたもののやりたいことを優先し辞めてからは小説家の傍ら若いながら起業し社長になっているような異色の経歴もさることながら卒業論文では哲学を交えたB'zの歌詞解釈を書いており、正直僕も同じようなことを論文を書きたかったのですがその論文のレベルの高砂といい深さといい、そんな発言を軽々しく言えないようなものでした。

その大ボスは僕のことを知ってくれており、歌詞解釈してるの見てるよー。なかなか良い発想するよね、あと最近カッコ良くなってない?良い女性でも見つけた?
彼には全てがお見通しだと言わんばかりの洞察力に冷や汗をかいていました。
また歌詞解釈見せてよと言われたので卒論がおわった後にでも書こうかなと思いました。
打ち上げでは今日加入した府大の院生2回の女性、ひさびさに会った年上の女性、1つ年下のキーボードの女性に囲まれたもののB'zや歌詞解釈の話をするとそこそこ盛り上がれたのでようやく女子と話すのに抵抗が無くなってきたなと思えるようになりました。
5年前の自分と比べたら嘘みたいです。この感性で高校時代を暮らしていたら楽だったかもしれませんね。ただそのしんどい時を経たからこそ今の彼女に出会えている訳でそのしんどかった時期を受け入れられるくらいには心も余裕を持つことが出来るようになりました。

また忘れた頃に前に出会ったB'zと同じ事務所所属のプロミュージシャンの人とごはん行きましょうと誘われ、京都大学の食堂で食べることにしました。翌日ライブ本番だというのにわざわざ大阪から駆けつけてくれたそうで今売り出し中やから西日本あちこち回ってて忙しかったら連絡とれてなくて申し訳ないと丁寧に謝られた後、B'z同好会にも携わりたいんだけどどうしても都合が合わないから本当に申し訳ないと思ってるから、僕らのバンドとB'z同好会のバンドとコラボするってのはどう?と提案されました。
最初は突拍子もない話でしたが、その会場もB'zと大変ゆかりのあるライブ会場でどうやらそこに招待してくれるらしく、B'z同好会にとっても悪くない話でした。
しかし、僕は演奏者ではないため自分の一存では決められるものではないため、ボスに一度聞いてみることにしました。
なぜボスに伝えたのかと言うと同好会の新入生がプロミュージシャンだと知ってるのはボスだけだったからです。こんな千載一遇のチャンスを!と喜んではいたものの演奏する側も準備がいるし、また今年就活生が多く人が集まれないということもあったり経費や企画やどのようにコラボするのかなどまだまだ双方の連携が必要だねと冷静に分析していました。
一応保留ということになり現在もまだコロナウイルス等の影響でまだ動き出してはいないがいつか実現したいなと思っています。

彼と仲良くなったのは彼も歌詞に興味を持っていていて二次会(大学編④-1参照)でいつかのメリークリスマスでなぜ椅子を買ったのかという彼の素朴な質問に対し当意即妙に答えたからでした。

なので今回会った時も今年のアルバムは歌詞解釈的に見てどう?前回との違いとかあった?となかなか主題の大きい質問をされました。
普段からこういったことを考えているので僕の意見を言うと、さすがだなー、へぇこういう見方があるのか!言われてみれば…!今後の歌詞作りに生かせそうだ…など色々感動して下さりこんなプロミュージシャンの心に響くようなことを言えたのが良かったです。
まるで僕はこのために歌詞解釈をやる運命にさせられたかのような気がして今その伏線が回収されたのではないかとそんな気持ちにもなりました。また落ち着いた時にでも彼を誘って一緒に飲みたいものです。

第八章 想定外と勘違い

10月に内定式があり3ヶ月ぶりに会社の同期と会いました。前よりも増えてグループ会社も参加していたので90人程の規模になっていました。
ホテルでの懇親会はグループごとで一発芸をやることになっていましたが、大体グループの中の陽キャがやる形になっていたので何とか逃れることができました。

程よく酔い今回も3ヶ月前と同じ女の子と基本喋っておりそこから二次会に参加し、その時は男と話していました。三次会は数人で行われ仲良くなった女の子にも誘われ僕も行くことになりました。
男はみんな喫煙する陽キャばかりでしゃべりの回しも上手く僕は基本聞き手に徹していました。
彼らは既に彼女がいて長い間付き合っていて結婚のタイミングの話をしていたので、あーそうか、もうこういう年齢になったのかとまだ付き合って2ヶ月も経っていなかった僕はしみじみなっていました。
帰りは女の子と阪急が同じということで2人で帰り、かなり相手は酔っ払っていたので少し気にしながら別れました。

1つ想定外があったのはその内定式でのガイダンスで一級建築士を取って下さいと言われました。どうやら設計じゃなくても取らないといけないことは個人的には大誤算でした。
内定式が終わった後すぐさま現在社会人である先輩マネージャーさんに相談し、塾に行かないとまず受からないよと言われたのでまだそこまで忙しくもなかったので早めに塾と契約し、勉強を始めることにしました。正直教材の量がものすごく多く、これを半年強で受かるものなのか!?と思っていました。
しかし、授業を受けるとそこまで一つ一つは難しくはないのでいけるのではないかと思いました。それもまた僕の勘違いでもありましたが…。

僕は卒論+一級建築士+バイトの両立を何とかできると踏んで卒論の経費も考えるとバイトの量も増やさなければなりませんでした。しかし2つの誤算がありました。
1つは一級建築士の勉強量が思ったより多くその割には全然覚えておらず、自分の記憶力の無さを改めて晒されました。

そしてもう1つは卒論でした。資料をただ増やしていくうちに海の景観によって町形成された情報もいくつか集まり流れを作ることができましたが、その流れを証明するための材料が明らかに足りませんでした。
かといって資料を集めた分、その抜けた穴が明確となったため何を探せばよいのか分かるようになったのでそれさえ見つければうまくいくとそう買い被っていたのです。

しかし探している答えが必ずしも用意されてるとは限らないのが全てのミソでした。それもどこにその答えが書いているのかも分かりません。候補を見つけ1ページ1ページ注視しては違う本を読んでいくそれをひたすら繰り返しました。しかし、大体は見つからずやり方が間違っているのかなと思いました。
ゼミの准教授に聞くといやーそれは甘いよ、もっと調べなきゃダメ、無かったら他のアプローチで…例えば舞子に絞らず他地域に広げて比較しながら進めていったりしないと今の情報だけじゃ弱すぎるね。

僕は言われた通り図書館で他の東西2地域を追加し、またひたすら資料探しに耽りました。同時に抜けている情報も探さないといけないのでバイトを削らざるを得なくなりました。また学祭あたりはNFなど非常に忙しく徐々に建築士の勉強もまともに出来なくなっていきました。

1月7日に提出しなければならない卒業論文。僕はひたすら資料を集め、それを分析し組み立て1ヶ月前くらいにある程度筋道が完成しました。それをブラッシュアップ、さらに追加の資料を集めたりし、もうあと20日という時に准教授に呼び出されました。

そして現在の進捗状態を説明すると今年度に卒業する予定だよね…?このままじゃ君留年だよ、君舐めてるでしょ卒業論文。そもそも仮定と結論が弱すぎるんだよ。たとえ資料が集まって証明できたとしてもそれはただの観光パンフレット、いや今の君はそれ以下だよね…とこっぴどく言われ、いやもうちょっと早く言ってくれよ~と思いました。

しかし更なる追い討ちをかけます。
君…にしても二次資料ばかり集めてないか?「えっ?この○○年史とかも?」うん、これも全部二次だね。僕は一次資料、二次資料については当然今まで教えて貰わなかったため曖昧なまま進んでいました。
一次資料は原典、文献そのものを指します。一次資料を加工、編集を加えたものは二次資料と言い、卒業論文では出来るだけ一次資料を用いて説明証明しなければならず、二次資料からの文献をそのまま使う孫引きは本来やってはいけない行為でした。
僕は歴史を著した年史の物は一次資料だと勘違いしていたのでそれを中心に組み立てていました。もちろん図書館の本などほとんど二次資料で僕はそればかり漁っていたのです。
それくらいは知っとかなダメだよ、当たり前じゃん。そう言われましたが、僕にはその当たり前を何も知りませんでした。

でも准教授はまあ、君は内定も貰ってる訳だし極力落としたくはない、でも僕たけが卒論をチェックするんじゃなくて建築の全教授が見ることになりそのうち1人でもダメとなったらダメなんだよ。そもそも今のクオリティじゃ僕がダメと言うけどね。
まず、仮定と結論を変えないとダメだね。君が調べてた大正時代に設立した土地会社については論文も無いし君もまだ薄いからそこから攻めるしかなさそうだね。まずこの会社についてと社長がどういう人なのかを早急に調べろ。そして資金をどこからやりくりしていたかも調べろ。それ次第で結論も変わってゆく。
そしてあと新聞をその周辺を調べてみろ、新聞は一応一次資料として扱える。これが1つでも出来なかったら留年だ。そしてこの内容を君は内容が薄いから100枚書ける文量は最低必要だね。もちろん量より質だからね、適当なこと書いてると見透かされてしまうから、簡潔に書くことを勧めるけどね。じゃ後は死ぬほど頑張ってください
僕は卒業論文の書き方ももちろん知らなかったので聞いてみると、卒業論文の書き方は他の論文を参考にしたら何とかなるよと半ば見放された言い方でしたがとりあえず再び資料探しから始まることになりました。

しかし20日しかありません。今からやっても1日5枚の計算、そして僕は中間諮問で提出する書式と文字の大きさで提出すると思っていたのでそれだと1枚に2500字埋まることになりその計算だと画像を入れた計算でも最低20万字必要!?!?ひとまず一枚書いてみると10時間かかりました。ちょっと待てよ…寝ずに書き続けたとしても50枚いかないやん??しかもそれは睡眠時間はもちろん、まだこれから資料を集めなければならず、しかもそれが見つかるとは限らないという詰みで完成させるにはかなり絶望的でした。

そんな絶望的な中、焦りからか僕は頭痛を伴う高熱を発症し、資料を探し情報を見つけるどころではなく完全にここで心が折れてしまいました。

地元の図書館へこれから籠もるので帰省してから病院へ行き、一応インフルではないと分かったので少し安心しました。ズルズル引きずらせるよりも一気に治した方が良いと思いその日の夜はパソコン作業をせず、ノートを使いどのようにこれから動くかを考えていました。

しかしふと考えてみると全然間に合わないことに気付きました。この時の僕は高熱状態で冷静さを欠いており、これは何もかもを捨てないと出来ないなと判断し、11月から組み込んでいた12月に入ってた予定、バイトを全てキャンセルしました。
僕から誘った予定もあったため1つ1つ謝りを入れる度に裏切ってしまった罪悪感に冒されました。
特に彼女とは前々からクリスマスあたりにUSJに行く約束がありそれもキャンセルになり、それは仕方ないねと許してくれた彼女とは提出が終わった直後に行くことにしました。

また、Twitterやインスタ、ゲームなどを一切封じ、スマホを明治や大正で用いられた旧字体や難読漢字の変換を調べるためだけに使用しようと決めました。

計算すると3時間睡眠、15時間パソコンでもパフォーマンスが良くて自分の資料は何とかまとめられますが100枚分には到底届かず出来て30枚、資料探しを加味すると20枚分しか行かないだろうなという目論見で完全に落ちたなと思いました。

まずは実家にいたため、母親にその旨を話すと何でもっと早くやらなかったの?サボってたからでしょ?彼女とか作っとるからこうなるんやと一方的に怒鳴られ高熱でそれどころではなく言い返す気力も湧きませんでした。しかも彼女をそこに引き合いに出すのはおかしいんじゃないかとイライラもしてきて、前までは彼女作れとうるさかったのに矛盾したその言動が更に頭の熱を帯びさせました。
サボってたはいなかったものの甘かったなとは思ってました。
父親には電話でまず出来ることからやれ、まだ時間はあるから諦めるなと激励されました。
祖母には予想外の答えが返ってきて、あんた彼女を持って遊びまくってるからこんなことに鳴るんやと怒られました。

これは母親と祖母が当時ケンカしあっていてその理由が僕が彼女を持ったことということもありとばっちりということや、資料探しで出かけている時彼女と遊んでいると勘違いされてたのも1つの理由で、僕って全然信用されていないんだなと思いさらに身も心も病みました。

そんな心折れかけの心を救ったのはとある同期でした。
入学式で初めて声をかけられた彼、そして建築にやる気がなかったり学籍番号も近かったためよくつるんでいました。彼はギリギリの単位でなんとか4回生となり同じ研究室になりました。彼の卒論も僕と同じくらい絶望的だと知っていたので大丈夫か?と声をかけました。すると、いやもう俺は留年やねん、そもそも卒論取ったとて単位が足りないことに気付いた(笑)
彼は僕より一足先に留年になっていました。そして僕もヤバいということを伝えると、
いやーでもめちゃくちゃ資料集めてたやん、それで受からんのん?とりあえずクオリティ低くても出して見ろよ、受かるかもしらんやん。それに来年俺がどれくらい頑張ったらいいかも分かるしさ、頼むからそのボーダーライン知りたいからやってくれや。
 
彼はすごい緩い気持ちで言ったのかもしれません。ただそれが僕にとっては目からウロコがパラパラ落ちていきました。

そっか…俺は今まで完璧を求め過ぎていた…。100%をゴールとして見ていたからいくら頑張っても達成しないことに絶望していたんだ。別に100%を求めなくていいんだ、60%の評価を貰えば単位はくれる。そこを目指せばいいんだ。
そう思えると気持ちがかなり楽になりあたふたしてた感情が薄まり、今何をすればいいのかはっきり見えてきました。その瞬間に熱も冷めていきました。

僕はそう言えば支えられながら進んできたんだよな、確かに卒論は自分の研究とはいえ、周りに聞けるとこはちゃんと聞いておこう。そういえば何を提出すればいいのかそれすらも把握していませでした。
研究室の同期に聞いてみると、中間諮問でいつも出してたA3でまとめたものと論文でした。論文100枚…って絶望的じゃない?だって20万字だもんな~と僕は打ってみると同期が、は?お前勘違いしてるぞ、多分その100枚ってのは原稿用紙のことやぞ?だから400×100やから4万字でええねん、しかも俺は2万字あれば大丈夫と言われたぞ、それに卒業論文は書式設定とかはないから適当に書いてもええんやぞ。ってかさ、俺もそれ他の研究室のやつから聞いて分かったわ。ここ何も教えてくれへんもんな~

えええええ~~~!?全然知らなかった。早めに聞いとけばよかった……。またもや僕の勘違いでした。

4万字なら頑張ったら10日でいけるやないか、まだ何とかなるぞ…なら資料探しに4日間くらいはひたすら没頭できる。帰ってから資料整理と解読してパソコンで頑張れば80%まではいけるぞ…ようやく受かるビジョンが見え始めていきました。

熱が引き治ってからは3時間睡眠で図書館で足掻いていました。しかし、土地会社や社長については調べても詳しいことは書いておらず、また新聞も1日見て二次資料に載ってるような既出情報しか手に入れることが出来ず何の成果も得られない日もありました。
諦めかけていましたが、0よりはましにしなければならないとそこの情報の代わりに持っていた情報をさらに補足させるような情報を集めることに力をかけ、何とか形にはしようかなと思いました。

今持ってる資料自体は大量にありそれを組み合わせれば1冊の本が作れるくらい面白い筋道にはなっていましたが、准教授の言うようにそれはパンフレットでやはり卒業論文は論理的に書かないとダメでした。
僕はとある仮説はあったものの根拠が薄く結論に持って行くのが難しい状況でしたがそんなこと言ってられないくらい時間は迫っていたので無理やりこじつけることにしました。

2週間を切り、そこからはパソコン作業にひたすら取りかかることにしました。最低15時間パソコンを触っていればギリギリ4万字にたどり着く計算でした。クリスマスも正月も投げ打って時間を卒業に捧げました。
とはいえ、さすがにずっと籠もっていると病んでいくので「15時間」といったようにそれ以外の時間はたまに友達と会ったり呑んだりしていました。また、提出5日前に祖父母の家に行きご馳走してもらいました。
祖父に卒論の事を話すと、いやー確かにこれで提出するのは甘い、ただ都市の歴史を学ぶってのは面白いだろ?知識を得れたってことだけでも留年したとしても十分じゃないか。まあお祝い金渡してしもうたけど落ちたら没収だからな(笑)

祖父らしいアドバイスで少し励まされた後は最後の追い込みをしました。結局睡眠は0~6時間を取り平均で3時間、そしてパソコンもほぼ起きてる間ずっとやるというのを18日間をちゃんと遵守したので1日前にようやく「文章」が完成しました。

残りはA3のまとめ、画像の貼り付け、注脚をひたすら付ける作業を夜通しでやり、とうとう提出日の昼まで続きようやく完成し、39000字…43枚…。何とか時間までに提出することが出来ました。 

身も心もくたくただったので提出した瞬間一気に糸が切れてたかのように眠っていました。やっと終わったんだ…こっからは遊ぶことができるぞ!!やった~~

次回、「再提出」デュエルスタンバイ!!